メルマガ・広報誌

vol.88 (8月22日)

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◎ 「東海蘭友会」「蘭の国パプアニューギニア」講演会ご案内

日時:8月28日(日)13:30~16:00 (入退場はいつでも自由です。)

会場:大垣市西地区センター
大垣市南若森町438 Tel 0584-73-1811 駐車場台数 55台

交通アクセス:名阪近鉄バス「久瀬川」から南方向に徒歩7分

入場料:300円(飲み物・会場費) 当日集金

講師 : イレーネ 賀集(日本・パプアニューギニア協会理事、日本アルゼンチン協会理事)

講演内容:「蘭の国パプアニューギニア」

パプアニューギニアは日本から一番近い南半球の国ですがあまり知られていません。
世界で一番言語の種類が多い国(800以上)で、「文化」も多様です。また蘭の種類も非常に多く、
三千種類以上あると言われています。

今回は首都ポートモレスビーで毎年行われる「蘭展」、ジャングル奥地の野生の蘭、
千人以上が参加する伝統的なお祭り、電気も水道も無い村での自給自足の生活、
固有動物等をスライドで紹介します。

その他: 蘭の展示と秋の蘭の管理

申し込み方法:当日会場で会場費(300円)と一緒に申し込んでください。
どなたでもご自由にご来場ください。

東海蘭友会事務局 上村 Eメール cattleya.kamimura@nifty.ne.jp

電話:上村一郎 携帯090-3482-9203

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◎ 国際研究インスティチュート(IIS) 講演会開催
当協会の唐沢副会長が主宰されております勉強会 国際研究インスティチュート(IIS)
が次の日程で講演会を開催されます。ご興味のある方はどなたでもご参加いただけます。

Ⅰ部: パネルディスカッション
 日 時: 2016年9月3日 (土) 13:00〜16:00
 テーマ: 英国EU離脱後の世界とどう向き合うか
 パネリスト:杉田弘毅氏(共同通信社論説委員長 )、
       大井幸子氏(国際金融アナリスト、株式会社 SAIL 代表取締役社長)
 モデレータ: 唐沢 敬(IIS代表、立命館大学名誉教授)
 場 所 明治大学 紫紺館 3階 S4会議室  
        〒101-0052 東京都千代田区神田小川町3-22-14 (JR御茶ノ水駅より徒歩5分)
 参加費 一般:2,000円 学生:1,000円
 定 員 50名

Ⅱ部: ネットワーキング・パーティ
  予定しておりませんが、有志で懇親会を行いたいと思っております。
    参加希望者は当日、事務局メンバーにお声かけください。
    なお、場所は紫根館近くを予定しております。

Ⅰ部のお申込み方法:
  パネルディスカッションのお申し込みは、
  IISのホームページの「講演会・ネットワーキングパーティーの申し込みフォーム」から
  お申し込みいただくか、または次メールに返信ください。
  hosokawa@iis-japan.jp

  IISのホームページURL  :     http://www.iis-japan.jp/
 
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◎ 双日 パプアニューギニア政府から海水淡水化設備の受注があったと発表 (2016.8.12、世界の水事情)
http://water-news.info/9148.html
2016年8月1日、双日株式会社は、パプアニューギニア政府から海水淡水化設備の受注があったと発表した。

パプアニューギニアには多くの島があり、小さな島では水の調達を井戸や雨水に頼っており、
供給が不安定かつ不衛生であるという問題を抱えている。
また電気の供給に関しても十分でない場所がある。
双日株式会社が受注した海水淡水化設備は、太陽光発電を電源とするもので、
電気のない場所であっても、安定して安全な水を供給することが可能となっている。
海水淡水化設備はマヌス州にビビ島、ムブケ島、ワール島の3島に、据置型設備10基、
可搬式設備5基が設置される予定で、これらを合計すると最大で
一日約5,000人分の飲料水を確保することが可能だ。
双日株式会社では、これらの設備の維持管理について現地で指導し、
将来的にも「島民が独力で継続的に設備を使用できるように配慮しています。」としている。

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◎ 祖父思い戦争向き合う 県遺族会青年部長・辻さん (2016年08月13日、Yomiuri Online)

http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20160812-OYTNT50078.html

 終戦から71年を迎える15日、日本武道館(東京都)で行われる全国戦没者追悼式に、
祖父を亡くした高校教諭の辻正人さん(47)(大津市)が初めて出席する。
高齢化が進む県遺族会の活動に続こうと、孫やひ孫世代で昨年4月に発足した青年部の部長。
式典を前に、「戦火に散った多くの命を慰霊し、
引き継がれてきた平和への思いを今後の活動につなげたい」と語る。(北瀬太一)

 辻さんの祖父・安吉さんは1943年2月に召集され、陸軍兵として現在のパプアニューギニアに出征。
44年6月に30歳で帰らぬ人となった。

 辻さんは、祖父の姿を写真でしか見たことがない。遺族会の活動に熱心だった父の良雄さんは、
安吉さんについて話すことはなく、99年に58歳で死去。
父と叔母の2人を育て、昨年に亡くなった祖母・菊枝さんも、
戦争で夫を奪われた思いを打ち明けることはなかった。

 「昔かたぎの厳しい人たち。戦後の苦労や生活のつらさを語るのは、
家族を守るために死んだ祖父に失礼だと思っていたのでしょう」と辻さんは振り返る。

 戦争とより正面から向き合うようになったのは、父の死後10年以上たった2012年。
なり手がないという理由で集落の遺族会の理事に就いたことがきっかけだった。

 自分なりに本を読みあさり、終戦後、遺児は片親という理由で就職に苦労するなど、
いわれのない差別を受けたという悲しい歴史の一面に触れた。
「父ら遺児たちが、孫世代の我々が同じ目に遭わないよう、
懸命に活動していたことがわかった」と言う。

 遺族会青年部の発足に際し、父を知る周囲の遺族から部長になることを勧められると、
「身近な人を守りたいという思いで戦った人たちの遺志を引き継ぎ、
微力でも平和な世の中のために手伝いたい」と就任を決意した。

 そこからは遺族同士の会合に出席したり、追悼式の運営を手伝ったりする活動の傍ら、
自問する日々だった。父世代の遺児らが中心となって活動する遺族会には、
戦没者の名誉回復と遺族の権利確立という明確な目的があった。

 一方、孫やひ孫世代の青年部は、何を目標に掲げ、
どう活動を続けていけばいいのか迷いがぬぐえない。

体験したことがない戦争をどう正しく学び、記憶の風化を防ぐべきか――。
模索する中、追悼式出席の声がかかった。「遺族であるという現実から逃げることはできない。
戦争の犠牲になった人、祖父母や父らの思いに近づくことができたら」。
距離を縮めるため、出席することにした。

 何ができるか、答えは簡単に出ないかもしれない。
それでも全国の遺族と接し、惨禍と改めて向き合うことで、新たな活動の一歩になると信じている。
会場では、写真の中で自分より若い姿のままの祖父に、
「あなたたちから受け継いだ今の世を守っていきます」と誓うつもりだ。
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◎ 兵庫県遺族会「青年部」発足へ 戦争の記憶次代に (2016.8.13、神戸新聞)

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201608/0009382492.shtml

戦没者遺族でつくる兵庫県遺族会は、孫やひ孫の世代による「青年部」を発足させることを決めた。
戦後71年となり、戦没者の配偶者や子どもが高齢化する中、戦争の記憶を受け継ぐ。
10月にも設立総会を開き、平和教育や戦争体験の聞き取りなどをしていく。(森 信弘)

 青年部は、存続に危機感を抱く日本遺族会が5年ほど前から、
全国の支部(遺族会)に設立を呼び掛けてきた。兵庫の設立発起人は女性部長のほか、
祖父や曽祖父を戦地で亡くした県内の30~50代の孫やひ孫4人。
昨年度から活動方針などを話し合ってきた。

 発足後は県や市町などの慰霊祭の運営などを手伝う。
独自の取り組みとして、小中学校での平和教育を計画する。
「ひいおじいさんは戦地でどんな体験をしたのか」など身近な事実を通して平和の尊さを伝える。
体験者や遺族からの聞き取り、飛行場などの戦争遺跡を紹介する地図の作製も考えている。

 14日には発起人3人で靖国神社を訪れ、設立を報告する。
翌15日は全国戦没者追悼式に参列するという。

 曽祖父がパプアニューギニアで亡くなり、発起人に加わった藤崎潤さん(33)
=神戸市北区=は地元の兵士の足跡をたどり、小学校で授業もしてきた。
「地元の慰霊祭は50代以上ばかり。
国や家族を思って死んでいった人たちのことをもっと知ってほしい」と話す。

 参加資格は未定だが、遺族でなくても認める方針。
既に20代以上の約100人から申し込みがあるという。
県遺族会TEL078・341・2952

 ・14県で既に設立

 日本遺族会(東京)によると、戦没者の孫世代による青年部は、
47都道府県のうち滋賀や徳島など14県の遺族会が設立している(今年3月末現在)。
ほかの遺族会でも準備が進むが、中心は40~50代。
会社勤めによる時間的制約や、会費をどうするかなどの問題もある。
 遺族会の会員は配偶者が中心だったが、現在は70~80代の子ども世代が大半を占める。
各市町にも支部はあり、全国では解散したところもある。兵庫県では解散の報告はない。
戦没者の子どもたちが、年月の経過とともに遺族会の中心になった。
日本遺族会事務局は「戦争の悲惨さ、平和の尊さ、
英霊の顕彰を継承していくには青年部が重要」とする。

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◎ 「生きること、死より難しい」 軍艦「高雄」元乗組員・阿部健一郎さん(93)
=遠野市 /岩手 (2016.8.13、毎日・岩手県)

http://mainichi.jp/articles/20160813/ddl/k03/040/011000c
・甲板の遺体、過酷な捕虜生活   遠野市土淵町の阿部健一郎さん(93)は、
太平洋戦争中に海軍の兵士として2年間過ごした時のことが、
当時よく歌った軍歌とともに今も頭に浮かぶ。
「四面海なる帝国を 守る海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉むべし」。
理不尽な教育を受けて過酷な戦地に身を置いたつらい記憶と、
仲間と励まし合いながら苦しい青春を過ごした懐かしさが、こみ上げてくる。【二村祐士朗】

 ・20歳で海兵団入団    阿部さんは5人きょうだいの長男として、土淵で生まれた。
1942年に岩手師範学校を卒業後、釜石で教員を1年間務め、
20歳だった43年4月に神奈川県の横須賀海兵団に入団する。
兵役期間が短い師範徴兵で、全国から召集された同期は約500人、
岩手からは阿部さんを含め26人だった。「私の周りではほとんどが陸軍の徴兵だったから珍しかった」  
3カ月間の研修では理不尽な教育が横行した。
ボートをこぐ練習などが連日あり、失敗すれば「連帯責任」という理由で
教員から拳や木の棒で容赦なく殴られる。
「卒倒する人もたくさんいて、とにかくひどかった。
天皇のために身を粉にして働き、死ぬのはよいことだとたたき込まれた時代。
あらがえなかった」

 ・戦場へ   43年7月、当時最先端の砲撃技術を誇った軍艦「高雄」に乗船した。
砲弾の位置を決める主砲発令所の伝令役を担当。
受信した暗号を解読する暗号員を、率先して手伝った。
「敵の潜水艦はいないか、空からの攻撃はないか、毎日神経をとがらせていた」という。  
師範徴兵のため、入団から1年ほどで帰国して、岩手に戻って海軍の担い手を育成するはずだった。
ところが、戦局が悪化し、伝令役の任務が続く。  
パプアニューギニアのラバウルで給油中、米軍の戦闘機から爆撃を受け、
20人前後が亡くなった。遺体が甲板に並ぶ。「それを見張る役を任された。異臭が体中こびりついてね。
『一瞬にして人は死んでしまうのか』と途方に暮れた」。遺体は海に沈められた。
 44年10月、フィリピン・レイテ沖の海戦に参加するため、航行中の時だった。
「ドーン、ドーン」。
発令所にいると突然、体が天井に突き上げられるような衝撃音が聞こえ、
同時に室内灯は全て消えた。米国の潜水艦に狙い撃ちされた。  
「ゴー」と船内に水が入り込み、船は瞬く間に45度に傾いていく。「終わったな」。
相手の爆弾が武器庫に届かなかったことなどが幸いし、船は約30分後に持ち直し、一命を取り留めた。  
外に出ると、攻撃を受けて船外に投げ出された、別の軍艦の日本兵らが救出されており、
重油まみれでうずくまっていた。高雄の兵士は約30人が死亡。
日本の連合艦隊は事実上、壊滅した。

 ・無人島に収容    間もなく、高雄はシンガポールに到着する。
45年8月、敗戦の一報を受けて阿部さんらはイギリス軍の捕虜になった。
無人島のレンバン島に連れて行かれた。  
食事は、1週間に米500グラムほどが支給されるのみ。
日中の気温は35度を超える暑さの中、官舎の建設や農耕をさせられた。
「マラリアや栄養失調で倒れないことが一番の課題だった。
ヘビやネズミなど、取れる生き物は何でも食べた。『何がなんでも生きてやる』と無我夢中だった」  
病気にかかることなく、46年5月に無事帰国した。
岩手の同期25人は約10人が戦死し、現在も生きているのは阿部さんを含め数人という。

 ・「墓つぼ」    阿部さんには、忘れない訓練がある。
シンガポールに着いた後、地上戦に備えて行っていた軍事演習だ。
直径1メートルほどのタコつぼを背負って敵に爆弾を投げ、
爆発するまでの間にその中に潜って身を守る練習を繰り返した。  
「生き残れる訳がなくてね。『墓つぼ』と呼んだよ。
でも今考えると、本当にばからしいことも、国のためという大義名分でやらされた」。
今でも恐ろしく感じる。
 「戦争中は、生きることのほうが死ぬことよりはるかに難しかった」と振り返る。
「今は平和に生きることのありがたさが、見えにくくなっているかもしれない。
平和は実は当たり前ではなく、いつ脅かされるか分からない。
人を殺し合って憎しみ合う、戦争があった歴史をいつまでも忘れないでほしい」

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◎ 南海支隊戦友遺族会、戦没の地で父を慰霊 松江の杉原さんがニューギニア再訪 
/島根 (2016.8.15、毎日・島根県)

http://mainichi.jp/articles/20160815/ddl/k32/040/232000c

 太平洋戦争の激戦地・東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で7月、
戦没者の遺族らで作る「南海支隊戦友遺族会」が、現地を訪ねて慰霊した。
父、三郎さん(享年27)を亡くした杉原栄子さん(78)=松江市石橋町=は、
4年ぶりに参加した。父親が現地で戦病死した友人の女性と「今夏は一緒に慰霊へ行こう」と約束していたが、
女性は3月に亡くなった。杉原さんは父や支隊の最期の場所を巡り、
女性の分まで手を合わせた。【長宗拓弥】

・同じ境遇、亡き友の分も   
遺族会によると、1942年、旧日本軍は連合国軍の拠点・ポートモレスビーの攻略作戦を始めた。
連合国軍の攻撃に飢えや病気も加わり、
応援も含めた隊員約1万4000人のうち約1万1000人が亡くなったとされる。  
三郎さんは攻略戦に加わり、同年11月に戦死した。杉原さんが1歳の時に出征したため、
父の記憶はない。ただ、戦地からは50通以上の手紙が届き、今でも大切に保管している。
杉原さんは2012年に、現地を訪問。その様子が昨夏の毎日新聞上に掲載されると、
「私の父もニューギニアで亡くなった。杉原さんと話がしたい」との連絡が松江支局にあった。
声の主は、大田市五十猛町の藤本陵子さん。父、菅原龍音さん(享年33)は44年1月、
ニューギニアのニューブリテン島でマラリアを患って亡くなった。  
昨年10月、杉原さんは、自宅に訪ねてきた藤本さんに写真を見せながら、
現地の様子を伝えた。
その後も2人はやりとりを続け、現地訪問を約束したが、藤本さんは今年3月、
心筋梗塞(こうそく)で亡くなった。  「届けたい 私の心白い雲 願いを乗せてニューギニアまで」。
藤本さんは、杉原さんに手紙で短歌を寄せていた。
杉原さんは「藤本さんの分まで祈りに行こう」と現地への再訪を決意したという。
・次男と旧軍拠点を巡拝   今夏の遺族会のニューギニア慰霊巡拝には、
高知や広島、大阪に住む遺族12人を含む計31人が参加した。
一行の巡拝には遺族会顧問で、ポートモレスビー攻略戦から生き延び、
昨年10月に95歳で亡くなった西村幸吉さんの遺骨を現地へ埋めるという目的もあった。
戦後移住して60〜86歳の四半世紀にわたり戦友の遺骨収容を続けた。
「ニューギニアの土になりたい」と生前、語っていたため、
遺骨の一部を西村さんが現地に建てた旧宅の庭に埋めたという。
 杉原さんらは、旧日本軍の拠点地域などを巡った。
壊れた戦闘機や爆弾が野ざらしの光景は4年前と変わらなかった。
しかし、野戦病院跡では散在していた兵士のビンや注射器を、現地の人がきれいに片付け、
遺品としてまとめてくれていた。  杉原さんは、三郎さんの最期の場所とされるクムシ川で、
卒塔婆を流して静かに冥福を祈った。
今回は次男の生剛さん(54)が初めて同行した。
「孫です。初めて来ました。おじいさんは、ここで死なれたのでしょうか」。
語りかけるように話したという。

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◎ 終戦記念日 平和誓う (2016.8.16、読売・東京23区)
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20160816-OYTNT50000.html

 ・水木しげる戦争作品展 

 71回目の終戦記念日を迎えた15日、都内各地で追悼式や戦争の記憶をたどる催しが行われた。
参加者らは、戦没者の冥福を祈るとともに、平和への誓いを新たにしていた。 
文京区の文京シビックホールでは、都と都遺族連合会が主催する戦没者追悼式が開かれ、
遺族ら730人が参列した。小池知事は式辞で「戦没された方の祖国発展への思いを心に刻み、
恒久平和の実現に取り組む」と誓った。

 遺族代表のあいさつでは、戦没者のひ孫にあたる台東区の中学1年立川力君(13)が
「曽祖父が、国や家族のことを思って戦死したと思うと心が痛む。
今日を機に、戦争について学び、平和のために役に立つ行動をしたい」と述べた。

 世田谷区立平和資料館では、終戦の日に合わせて、
全国の戦争体験者から募った体験談の朗読会が行われ、約30人が耳を傾けた。

 同資料館がこの日完全オープンしたのに合わせ、都内のNPOが企画。
戦死した兄の遺骨をひきとったという体験談では、
桐の箱に「英霊」と書いた紙が1切れ入っているのを見て、
「兄の命は紙切れ1枚の重さだったのかと、信じられなかった」といった思いが語られ、
参加者らは静かに耳を傾けていた。

 同区内の空襲で父を失った横浜市の主婦関根美智子さん(84)は、
「亡くなった父のことを思い出した。これからも体験を伝え続けてほしい」と話していた。

 調布市小島町の市立中央図書館では、同市内に住み、
昨年11月に亡くなった漫画家・水木しげるさんの戦争に関する作品が展示され、
終戦の日も来館者が見入る姿が見られた。

 激戦地となったラバウル(パプアニューギニア・ニューブリテン島)に出征した水木さんは、
爆撃のため左腕を切断した。当時の戦争体験を基にした「水木しげるのラバウル戦記」などが展示されている。

 府中市小柳町、主婦末盛三枝子さん(66)は
「体験した人の作品だからこそ訴えるものがある。改めて二度と戦争をしてはいけないと思った」
と話していた。展示は9月25日まで。

 ・旧中川で灯籠流し

 江戸川、江東両区の間を流れる旧中川では15日夜、
東京大空襲の犠牲者を慰霊する灯籠流しが行われた。

 旧中川では空襲の猛火から逃れようと、約3000人が飛び込んで命を落としたとされている。
この日は「安らかに」などのメッセージが書かれた灯籠約2400個が、
午後7時頃から次々に川面に浮かべられた。

 江戸川区平井の浅見也寿子さん(82)は「当時この川で遺体を引き揚げるのを手伝った夫から、
恐ろしく悲惨な光景だったと聞いた。今ある平和の尊さを、改めて実感します」と話していた。

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◎ 遺族ら300人 平和へ誓う (2016.8.16、読売・岩手県)

http://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20160815-OYTNT50102.html

・盛岡・護国神社で戦没者追悼  終戦記念日の15日、盛岡市八幡町の岩手護国神社で、
「戦没者追悼平和祈願祭」が開かれ、遺族ら約300人が参列した。式典では、
遺族らが正午の時報に合わせて1分間黙とうし、冥福を祈った。
戦没者の氏名が書かれた串約1万8000本をたきあげて供養する「火焚神事」も行われた。 
遺族を代表し、「英霊にこたえる会」県本部会長の内藤隆さん(61)は
「再び戦争を起こさないことが、平和な日本を築き上げていくためのただ一つの道だ」と神前に誓った。 
戦後71年を迎え、参列した遺族の高齢化も目立った。盛岡市山王町の中野恵子さん(74)は1歳の時に、
パプアニューギニアのビスマルク諸島で父親が戦死し、母親に女手一つで育てられた。
中野さんは「私たちのような思いを、未来の人たちにはしてほしくない。
戦争の悲惨さを若い世代に語り継いでいきたい」と話していた。

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◎ 先島にラワン材大量漂着 沈没運搬船から流出 (2016.8.16、八重山毎日新聞)

http://www.y-mainichi.co.jp/news/30282/

沈没した木材運搬船から流出したラワン材。西表島野原海岸には27本の漂着が確認されている
=4月7日(山口晴幸氏提供)
旅客船などに衝突事故懸念 ウミガメの繁殖にも影響

 石垣島の南西約110㌔の沖合でことし1月14日に沈没した木材運搬船(5007㌧、パナマ船籍)から
ラワン材が流出し、防衛大学校名誉教授・山口晴幸氏の調査によると、
先島諸島7島25海岸で85本の漂着が確認され、先島全域に流れ着いている可能性が高いという。
ラワン材は長さ約15㍍、直径50−60㌢の丸太。
西表島の野原海岸には27本が折り重なるように打ち上げられている。
ウミガメの繁殖に影響を与えるおそれがあるほか、台風で海上に流出した場合は
旅客船や漁船が衝突する事故も懸念されるため、早めの撤去が求められそうだ。 
木材運搬船はパプアニューギニアから中国向けに航行していた際、荷崩れを起こして沈没。
流出したラワン材は500本以上とされ、沈没船の船倉には約1000本が残っているという。 
山口氏がことし3月から4月にかけ、与那国島、波照間島、西表島、黒島、竹富島、石垣島、
宮古島(池間島含む)の55海岸(総延長28・6㌔)で調査したところ、
八重山では6島15海岸で69本、宮古島では5海岸で16本の漂着があった。

 山口氏は、海岸放置が長期化した場合、
海岸の自然環境や船舶の安全航行に悪影響を及ぼすことが懸念されると指摘する。 
ウミガメを研究する黒島研究所(若月元樹所長)によると、八重山諸島での産卵のピークは6~8月。
数が少なくなるが、10月まで続くという。 
若月所長は「アオウミガメやタイマイは海浜の奥で産卵する傾向があり、
丸太があると移動したり、諦めて海に帰ってしまう可能性がある。
海中で産卵すればふ化はしない。丸太はふ化したカメの障害にもなる。
海にたどり着くのが遅れればカニに食べられてしまう可能性がある」と指摘する。 
県八重山土木事務所維持管理班によると、6月16日付で、
荷主の中国企業から流出したラワン材の所有権を放棄するとの通知が保険会社を通じてあったため、
海浜管理者が撤去することが可能となっている。 
同維持班は現在、撤去する海浜や撤去方法を検討しており、
「航路、ウミガメの産卵に影響する危険な箇所を選択し、
重点的に撤去することを考えている」としている。

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◎ 71回目 不戦の決意新たに /栃木 (2016.8.16、毎日・栃木県)

http://mainichi.jp/articles/20160816/ddl/k09/040/099000c
・歴史繰り返すな、県戦没者追悼式

 71回目の終戦記念日を迎えた15日、宇都宮市陽西町の県護国神社で、
「県戦没者追悼式」(県戦没者合同慰霊祭執行委員会主催)があった。
遺族ら約250人が出席し、正午の時報に合わせて黙とうをささげた。

 式には同委員会の名誉会長でもある福田富一知事も出席。
福田知事は「祖国の平和と繁栄を信じながら永遠に帰らぬ身となったあなた方の心中を思う時、
ご遺族の心情をお察しする時、新たな悲しみと痛恨の情が切々として胸に迫ってくる」と述べた。
さらに、「先の大戦から学び取った貴重な教訓を深く心に刻み、
再び悲しみの歴史を繰り返すことのないよう決意を新たにする」と平和への思いを語った。
【野口麗子】
・父は帰って来なかった 上三川町・大島政夫さん

 太平洋戦争中に父親が激戦地だった東部ニューギニアで戦死したという上三川町の大工、
大島政夫さん(80)も15日、県戦没者追悼式に参加し、不戦の誓いを新たにした。

 げた屋の2代目だった大島さんの父正一さんは、1941年夏、31歳で日本軍に召集された。
当時5歳だった大島さんは状況をのみこめなかったが、
しばらくすると正一さんが派遣された東部ニューギニアから、はがきが届いた。
「俺のことは心配ないから、お身体大切に働いて下さい」「子供たちの写真を送って下さい」。
家族の様子を気にかける内容がつづられていた。

 大島さんは、大切に保管してきた当時の手紙を取り出しては、
「はがきいっぱいに字が書かれている、書ききれなかったのかな」と思いをはせた。
行数の少ないはがきを手に取ると「戦況が悪化した時期に書いたのかも。自分でも(死期に)
気づいていたのかもしれない」とつぶやいた。

 48年9月、正一さんが44年12月に東部ニューギニアで戦死したという「死亡告知書」が届いた。
後日、「大島正一」と書かれた箱も届き、大島さんが箱を開くと、中身は空。
遺骨はなかった。父が死んだと信じられず、家の雨戸がカタカタ鳴ると、
父が帰ってきたのではないかと扉を開けてしまう時もあった。
それから、「父の遺骨を拾いに行きたい」という思いを抱き続けた。
・戦争は私たちの代で終わりに

 念願がかなって2009年10月、パプアニューギニアの慰霊祭に合わせて
戦地を訪れる機会があった。戦車や戦闘機が残る地を見て「戦争は悲惨だ」と感じ、
父を思って手を合わせたという。

 参院選を経て国会では「改憲勢力」が3分の2の議席を占め、
憲法改正に向けた動きは活発化すると見られる。
大島さんは「戦地に行くことになったら絶対に不幸になる。
戦争は私たちの代で終わりにしなければならない」と語った。【野口麗子】


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◎ 料理家が絵本「もったいないことをやめ、おいしく」 (2016.8.21、毎日)
http://mainichi.jp/articles/20160819/k00/00e/040/337000c

 子どもやその親たちに、普段の生活の中にある「食」を見つめ直してほしいと、
料理家の森野熊八さん(54)が食育絵本「みなみのしまのカウカウ カイじいさんとおおきなさかな」
(新日本出版社)を出版した。
森野さんは「幼稚園や保育園、学校の先生など子どもたちに教える立場の人にも
ぜひ読んでほしい」と話す。

 料理学校の教授をしていた30年ほど前。
あまりにも基本的なことを知らない生徒が多いことに驚いた。
魚をおろすのにおろし金を用意したり、皮を厚くむいて食材を無駄にしたり。
「料理を学ぼうという志のある子ですらこれでは、次代を担う子どもに正しい知識が伝わらない」。
若い人たちに料理や食材についての基礎知識を、
なぜそうするのかという理論からきちんと教えることが必要だと感じた。

 料理人としてレストランの厨房(ちゅうぼう)に立ちながら家庭科の教員免許を取得。
大学での講義や講演活動を通じて「食育」の大切さを訴えてきた。

 食育絵本をつくろうと思ったのは、「子どものころから、食に対する関心を養ってほしい」
と考えたからだ。自分も幼いころ絵本が大好きだった。
「絵本の手触りやにおい、ページをめくる時のワクワク感。
そういうものを今の子どもたちにも味わってほしい」という思いもあった。

 レシピ本は多数出しているが、絵本づくりは初めて。出版社探しから、
イメージ通りの絵を描いてくれる人に出会うまで、苦労続きであきらめかけたこともあった。
5年がかりでようやく完成した。

 南の島に暮らすカウカウ少年はコックさんになるのが夢。
食堂のお手伝いを通して、食材を無駄なく使うことを学び、食の楽しさを知る。
少年の名「カウカウ」はパプアニューギニアの言葉で、主食である「イモ」という意味だ。
絵は福岡在住のイラストレーター、イシカワチヒロさんが手がけた。

 「さよならぼくたちのようちえん」などで知られるシンガー・ソングライターの新沢としひこさんが作曲し、
森野さんが作詞した歌「おなかがすいた」の楽譜や、魚のムニエルなどの作り方も掲載した。

 農水省の2013年度推計では、日本の年間食品廃棄物は約1927万トン。
うち、食べ残しや調理過程での過剰除去など、
本来食べられるのに廃棄された「食品ロス」は約632万トンで、
14年の世界の食糧援助量の約2倍に相当する。
国民1人当たりにすれば、1日茶わん1杯分のご飯を無駄にしていることになる。

 森野さんは「もったいないことをやめておいしく食べよう、というのも立派な食育。
食育は決して難しいことではないと知ってほしい」と話した。【小松やしほ】

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