vol.314(12月20日)
★★・‥…―━━━―…‥・・‥…―━―…‥・・‥…―━━━―…‥・★★◎届いたのはサンゴの欠けらだけ 大叔父の手がかり求めDNA鑑定へ (2022.12.7、毎日)
https://mainichi.jp/articles/20221205/k00/00m/040/157000c
78年前、日本から約4700キロ離れたパプアニューギニアで、27歳の青年が死んだ。名前は新井進さん。
私の祖母の弟(大叔父)だ。家族に届いたのは遺骨の代わりとなるサンゴの欠けらだけ。
でも、DNA解析の技術が進んで、進さんを捜すことができるかもしれない。
私は進さんの足跡をたどる旅に出た。【國枝すみれ】
父の死に「ああ、しまった」
厚生労働省には4月時点で1万1955柱の遺骨が身元不明のまま保管されている。
進さんが死んだパプアニューギニアで収容された遺骨280柱も含まれている。
2021年10月、厚労省は戦没者の遺族がDNA鑑定を要求できる地域を大幅に拡大した。
だから、おいである父のDNAを提出して照合してもらおうと思った。
でも、今年2月、父が死んだ。悲しみと同時に「ああ、しまった」と思った。
厚労省に電話すると、「死者はDNAの検体提供者になれません」と言われる。
そもそも焼骨してしまえば、細胞内のDNAは壊れてしまう。
進さんは独身で直系の子孫がいない。兄弟姉妹はもちろん、おいやめいは全員が他界していた。
唯一生き残っている父の姉(89)は異母姉妹なので、進さんとは血がつながっていない。
万事休すだ。諦めきれず、出棺の前日、父の髪を切り取り、耳あかも綿棒で採取した。
とりあえずDNAを保存しておこうと思ったのだ。我ながら未練がましい。
ふと思った。父親から男の子に遺伝するY染色体DNAを共有する親戚はもういないが、
母系でつながるミトコンドリアDNAならどうだろう、と。
進さんと同じミトコンドリアDNAを持っている人間なら存命だ。進さんのめいの子どもたち、つまり私のいとこだ。
とりあえず申請すると4月、厚労省から親展と書かれた封書が届いた。
「鑑定の実施に必要な条件を満たしているので、DNA鑑定を実施することになりました」
突破口が開けた。胸が高鳴る。
久しぶりに会ったいとこは「顔を見たこともない進さんだけど、
私のDNAで身元が判明できたらすごいと思う」と明るく笑った。
DNAを照合する検体の採取は拍子抜けするくらい簡単だった。
綿棒のようなものを口内につっこんで、ほおの内側の粘膜をぬぐうだけだ。DNA鑑定の費用は国が負担する。
いとこと2人で、厚労省から送られた検査キットの注意書きを読みながら、作業をする。
ツバを全部飲み込んでから、ほおの内側(口の内側)を10回ほどこすってください。
綿棒の先が他の物に触れないように注意し、日陰で2時間程度乾かしてください。
綿棒はビニール袋に入れず、直接封筒に入れてください。
名前や住所などを書き込む同意書はピンク色の封筒に入れて普通郵便で、
検体は水色の封筒に入れて書留で送る。「水色の封筒には氏名、住所は書かないでください」と注意書きがある。
究極のプライバシー情報が外部に流出することを防ぐ工夫だ。
2通の封書を送ったら、待つだけだ。3
月末時点で、厚労省は私のような遺族から947件の申請を受け付けた。結果は数年後になるだろう。
姉と一緒に眠ってほしい
進さんの遺骨を捜そうと思ったことに、深い理由はない。
祖母は諦めていたし、父も興味はなかった。家訓は「生き神様が優先」だった。
死んだ者のために金を使うより、生きている人間に金を使え、という意味だ。
しかし、今は数万円ほどでDNA分析ができる時代だ。
技術発展のおかげで進さんの遺骨が判明するのならトライしてもいいのではないか、と思ったのだ。
英国とアルゼンチンが戦争したフォークランド諸島にある墓地を訪れた体験が影響したのかもしれない。
冷たい強風が吹き付ける大地に、無名兵士(誰だか分からない兵士)と彫られた墓石が何列も並んでいた。
そこに息子が埋葬されているというアルゼンチン人の母親は言った。
「息子が生まれたとき名前をつけた。名前を持って戦争にいった。なのに今は名無しで眠る。
名前をつけてやりたい」
進さんが戦死して、新井の家は消滅した。兄姉4人もこの世にいない。
進さんの骨が特定できたら、祖母が眠る墓に一緒にいれてあげるつもりだ。そしたら少なくとも、姉と一緒に眠れる。
DNA鑑定はやっと本格化
太平洋戦争中の海外戦没者は軍人、軍属、民間人を含めて約240万人とされるが、約112万柱は密林や海中に埋もれたままだ。
米国は1991年、DNA鑑定で兵士の身元を割り出すことに初めて成功する。
日本はその後も、戦没者の遺骨を現地で荼毘(だび)に付し、遺灰を日本に持ち帰って千鳥ケ淵に納めてきた。
火葬が日本の伝統とはいえ、焼骨はDNAを完全に破壊してしまう。
手がかりのない全ての遺骨について、厚労省がDNA鑑定の検体として歯を採取する手法を取り入れたのは03年。
ただ、爆死した兵士の体はバラバラになるし、埋葬されなかった遺体は動物が食い荒らすので、完全な形で出土する例は少ない。
検体部位を拡大し、緻密な骨の採取を始めたのはわずか3年前だ。
DNA鑑定の本格導入が遅れた結果、3月末までに身元が判明した遺骨は1210柱しかない。
ほとんどが埋葬者が多いシベリア抑留者で、パプアニューギニアを含めた南方戦線の戦没者は28柱のみだ。
パプアニューギニアのように気温が高い熱帯雨林の酸性土壌に埋まっていた場合、DNAの劣化は早い。
一つしかない核の中にある常染色体DNAより、いくつもあるミトコンドリアDNAのほうが、検出できる可能性は高い。
だが、ミトコンドリアDNAの分析だけでは出身国や個人の特定は難しく、完全に日本人であることさえも証明できない。
大阪大学の岡田随像(ゆきのり)教授(遺伝統計学)が説明してくれる。
「遺伝子変異の組み合わせを分類してグループ分けをします。
その結果で、この種類のグループが一番多い国と地域はここです、という言い方ならできます」
岡田教授は大量の遺伝情報を高速解析できる装置「次世代シークエンサ」で常染色体DNAの全ゲノムを解析する手法が、
身元特定の王道とする。
「1万年前の縄文人の骨でも可能で、100年もたっていない戦没者の遺骨なら十分、DNAサンプルを抽出できると思います。
とりあえず採取して次世代シークエンサで分析してみる、というのは一手です」と提案してくれた。
次世代シークエンサの機械さえあれば、つまり機械を持っている研究機関に外注すれば、
いまや全ゲノム解析の値段は1柱約10万円。50万カ所に絞った部分解析なら、
約1万円でできるという。=つづく
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◎ 生還率6%…めちゃくちゃな作戦 死因の8割は飢えと熱帯病(2022.12.8、毎日)
https://mainichi.jp/articles/20221205/k00/00m/040/171000c
私の祖母の弟、新井進さんの遺骨を捜すDNA照合を申請すると同時に、進さんの足跡をたどる作業を始めた
。唯一の手がかりは戸籍に残る「昭和19年1月20日時刻不明、
東ニューギニア方面(現・パプアニューギニア)に於(お)いて戦死」との一文だ。【國枝すみれ】
靖国神社に残っていた記録
進さんは1916(大正5)年、5人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。
三女だった私の祖母は六つ離れた進さんと仲が良かったらしい。
「飛ぶ鳥跡を濁さず」が口癖だった祖母は、家族の写真や手紙をほとんど焼いて死んでいった
。終戦後、一度だけ戦友が九州にいた祖母を訪ねてきたことを伯母が覚えていたが、何を話したかについては知らなかった。
どの部隊に属していたかも分からないのでは話にならない。
困っていると、母が思い出した。「そういえば、おばあちゃんと姉たちが靖国神社で進さんの50年祭をやった。
神社に『50年祭までする家族は珍しい』と言われた、と聞いた」
靖国神社に電話をかけると、すぐに調べてくれた。進さんは、陸軍第18軍第20師団輜重(しちょう)兵第20連隊に所属しており、
44(昭和19)年1月20日にパプアニューギニアのウルワ河で戦死していた。
輜重兵の役割は、馬や車で食料や武器を運ぶ後方支援。日本軍は戦闘員ではない輜重兵をバカにした。
「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょう)トンボも鳥のうち」とからかった。一方、米軍や豪軍は兵站(へいたん)を重視した。
食料や武器が届かない地域に戦闘を広げることはなかった。
軍公式記録はわずか2枚
厚生労働省社会・援護局に、得られた情報や戸籍のコピー、住民票などを送り、進さんに関する資料を探してもらう。
しばらくして、留守名簿、戦時イロハ留守担当者名簿、輜重兵第20連隊の行動年表が送られてきた。
防衛研究所戦史研究センターの柴田武彦さん(66)が資料読みを手伝ってくれた。
大阪商大を卒業した進さんは39年12月、23歳で陸軍に入隊している。連隊は中国北部に派兵されていたが、翌年1月に編成し直された。
進さんは駐屯していた朝鮮で新兵訓練を受けてから伍長になり、そのまま南方戦線に派兵されたらしい。
一番の収穫は、進さんの認識票の番号が1033番だと判明したことだ。
日本軍の兵士は楕円(だえん)形のアルミ製認識票にひもを通して、体にたすき掛けにしていた。
米兵も名前が彫られた認識票(通称ドッグタグ)を首にかけている。
認識票には部隊番号、中隊番号、そして1033と書かれているはずだ。
喜んでいると、柴田さんに言われた。
「でも、認識票が遺骨と一緒に出てくることはほとんどないのです。
出土しても、腐食していてほとんど読み取れません」
ため息が出る。それにしても、軍の公式記録はわずか2枚。国のために戦死して紙切れしか残らないのか……。
「絶対、見込みなし」も強行
日本から約4700キロ南にあるニューギニア島は当時、東半分がオーストラリア領で西半分はオランダ領だった。
進さんたちの戦場は東半分にあたるパプアニューギニアだった。
日本軍の主な動き
20連隊の1267人は43年3~8月、ニューギニア島のハンサに上陸した。
戦争が終結して46年1月に日本に帰還した兵士はわずか77人。生還率は6%だ。
ショックを受ける。一体何があったんだ、進さん。
東京・九段下の昭和館に戦争関連の資料をそろえた図書室がある。
防衛庁防衛研究所が戦後に編さんした太平洋戦争の戦史「戦史叢書(そうしょ)」もそろっている。
日本は41年12月の真珠湾攻撃の後、イケイケどんどんで戦線を拡大した。
3カ月後にはニューギニア島東端に位置するラエ、サラモアを占領。
さらに連合国軍総司令官(南西太平洋方面)のダグラス・マッカーサーが陣取る島南部のポートモレスビーを攻略しようとした。
しかし42年6月、ミッドウェー海戦で日本軍は空母4隻と多くの戦闘機を失い、8月には連合国軍にガダルカナル島を占拠された。
海路でのポートモレスビー攻略を諦めた日本軍は、
ニューギニア島に南海支隊を上陸させ、2000~4000メートル級の山が連なるオーエンスタンレー山脈を越える陸路でポートモレスビーを目指した。
だが、約50キロ手前で食料が尽き、作戦を中止し、連合国軍に追われて退却した。支隊の参謀が、
「(弾薬や食料の輸送・補給に)機械力を利用しない限り、絶対見込みなし」と報告したのに、強行した結果だ。
その後、ニューギニア島東部のブナやギルワの日本軍は次々と全滅する。
密林に「片付けられた」日本兵
20連隊の行き先は、ガダルカナル島からニューギニア島に変更された。
ハンサに上陸したころ、日本軍は既に制空制海権をほとんど失っていた。
連合国軍の空爆を避けるため、ラエやサラモアの要所から数百キロ離れた北岸のハンサに上陸せざるを得なかったのだ。
連隊を含む20師団は、ラエまで300キロの自動車道の建設に投入された。
海岸線を進むと距離があるからいっそジャングルを突っ切る道路を建設してはどうか、という師団長の思い付きから始まった無謀な計画は、
3分の2ほど完成したところで中止になる。連合国軍がラエに上陸し、意味がなくなったのだ。
20師団は島東部のもう一つの要所フィンシュハーフェンに送られる。
「食料も弾丸もない将兵に攻撃を命じることはできない」と訴える師団長に対して、
18軍司令官は攻撃続行を命じ、3カ月にわたる戦いで約5500人が死んだ。
ラエ、サラモア地区で敗れた51師団は標高4500メートルのサラワケット山系を越えて脱出する。滑落や凍死が相次ぎ、2200人が死んだ。
机に頭を打ち付けたくなる。こんなめちゃくちゃな作戦に従事させられて、進さんは死んだのか。
森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)によれば、マッカーサーは手記でこう回想している。
「ニューギニアの自然は過酷だったが、過酷な自然というものは克服してしまえば、かえって味方になるものだ」。
制空制海権を握った米軍はジャングルに逃げ込む日本軍を深追いしなかった。「あとはジャングルが片付けてくれた」
マラリアやデング熱、アメーバ赤痢、大腸炎――。飢えて衰弱した兵士は戦う前に感染症で死んでいった。
ニューギニア戦での日本兵の戦死の実態は、8割以上の死因は飢えと熱帯病とされる。=つづく
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◎ 「餓鬼道」のガリ転進、無残な行軍 大叔父が戦死した場所は…(2022.12.9、毎日)
https://mainichi.jp/articles/20221207/k00/00m/040/104000c
私の祖母の弟、新井進さんの足跡をたどるとパプアニューギニアに送られて1年もたたないうちに死んでいた。
軍の公式記録には「1944(昭和19)年1月20日時刻不明、ウルワ河で戦死」と書かれている。ウルワ河ってどこだ?【國枝すみれ】
死の行軍
東京・九段下の昭和館にある図書室の司書が古い地図を持ってきて、教えてくれた。
「ニューギニア島の北岸にあるシオとガリの間には三つの大きな川がありますが、
ウルワ河は最もガリに近く、ガリの東方約10キロにあります」。じっと地図を見つめる。
43年12月、第20師団の一部はニューギニア島東端のフィンシュハーフェンでの戦いに敗れ、ガリ近くをよろよろと退却していた。
ガリ周辺で当時、交戦は記録されていない。日本軍はもう反撃する武器すらなかった。あるのは連合軍による一方的な機銃掃射や爆撃だ。
戦史叢(そう)書にウルワ河の記述がある。
「連日の霖雨(ながあめ)に水勢を増し水流矢の如(ごと)く、流速6米(メートル)に及ぶものもあり。
将兵の集団渡河に於(おい)ても流失するもの少なからず」
ウルワ河は、河原の幅が約1キロあり、その間に幅数十メートルの川が何本か流れていた。
普段は膝ぐらいの水深だ。そんな河だが、上流の山で雨が降ると、瞬時に増水して濁流が押し寄せる。
鉄砲水だ。食料がなく体力が衰えているので、踏ん張れずに足を取られて流されてしまう。
河原には遮るものがないため、昼間に渡れば米軍に見つかってしまう。夜に渡河すると、暗闇で足元が見えない。
20師団はガリに到着したものの餓死が相次いだ、と戦史叢書にある。
シオ以西は「餓鬼(がき)道」とも。潜水艦による補給が失敗し、到着前に食料は完全になくなっていた。
進さんと同じ輜重(しちょう)兵第20連隊にいた坪内健治郎さんの手記「最後の一兵」は、こう記している。
堀江正夫さんをしのぶ会では、顔写真が祭壇に飾られ、生前のインタビュービデオが流された=
東京都渋谷区のホテルで22年6月15日、國枝すみれ撮影
「途中の道ばたで倒れるものが少なくなかった。食料も医薬もみとる者もなく、
枯れ木がくちると同じようにその場で息を引き取った兵たちの哀れむざんな姿が、転々とよこたわっており、おもわず顔をそむける」
道路脇にある地元民の家をのぞくと、傷病兵が重なり合ってうごめいており、
遺骸にハエやウジ虫が群がっている、との描写もあった。
「バンバン、小銃の音がきこえる。その間をぬって、手榴(りゅう)弾が炸裂(さくれつ)する。
私たちは、その音をきくたびに、おもわず耳をおおわずにはいられない。病兵の自決する断末魔の音なのだ」
「ガリ転進」とよばれる死の行軍。シオ、ガリ、マダンと進む間に4700~6000人が死んだ。
進さんはそのうちの一人だった。
ガリ転進の作戦を立てた参謀
進さんを覚えている人はいないだろうか。探しまわったが、時間の経過は重かった。
連隊の戦友会を率いていた山口県の男性も亡くなっていた。連隊の名簿も見つからなかった。
堀江正夫さんをしのぶ会で花を供える参列者=東京都渋谷区のホテルで22年6月15日、國枝すみれ撮影
残念だったのは、ニューギニア島からの帰還兵で遺骨収集に力を注いだ堀江正夫さんが生きている間に取材できなかったことだ。
今年3月に106歳で亡くなった。
堀江さんは陸軍士官学校、陸軍大学校を出たエリート軍人だ。
進さんが死ぬ1カ月ほど前にパプアニューギニア島に到着。第18軍第51師団の参謀として、ガリ転進の作戦を立てた。
戦後、自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、西部方面総監で退官した。
その後、参議院議員を12年間務めた。「英霊にこたえる会」名誉会長や「東部ニューギニア戦友・遺族会」会長を歴任した。
日本・パプアニューギニア協会の島田謙三事務局長(61)は、堀江さんについてこう話してくれた。
「戦友の遺骨を全部持って帰ってきてないじゃないか。そう思うと死んでも死にきれない、と話していた。
遺骨収集と世話になったパプアニューギニアの人々の発展に協力したい、最後の思いはそれだけだったと思います」
「敵と戦い、誇りある死を」
島田さんの計らいで、家族が堀江さんをしのぶ会の招待状を私に送ってくれた。
6月、渋谷のホテルで開かれた会は盛大だった。日本遺族会のメンバーや保守系の政治家ら数百人が出席し、
生前に撮影された堀江さんのインタビュー動画が流された。あいさつのトップバッターは保守派評論家の櫻井よしこさんだった。
堀江さんは「東京裁判史観のまん延は、諸外国への卑屈な謝罪外交を招き、次代を担う青少年の国への誇りと自信を喪失させている」と
ウェブサイトで訴える日本会議のメンバーでもあった。
日本・パプアニューギニア協会の島田謙三事務局長は遺骨収集団の行動記録や写真を保管している
=東京都中央区の協会事務局で22年5月18日、國枝すみれ撮影
式典の最後に堀江さんが死ぬ3日前まで手をいれていたという遺稿をまとめた本が配られた。
タイトルは「最後まで正々堂々と戦い抜いた第十八軍の作戦 ―帰国を待ち望む七万柱のご遺骨―」。
1944(昭和19)年7月のアイタペ攻撃開始時の軍司令官による訓示が紹介されている。
状況は絶望的で合理的解決法はないから気合で戦って自爆攻撃しろ、と読み取れる内容だ。
堀江さんは著書で司令官の意図をこう説明している。
「敵との戦いではなく、飢えと病に空(むな)しく倒れる多くの部下の姿を見る度に深く心を痛め、同じ死ぬなら敵と戦い、
誇りある死を与えることができればという可愛い部下に対する男の愛もあったのである」
遺族は「知りたい」 気持ちに温度差
20師団の行軍距離は部隊によっては2500キロにも及んだ。東京から台北よりも遠い距離だ。
18軍司令官は、大本営ですら意味がないとして後ろ向きだったアイタペ攻撃を強行。
終戦直前には、これ以上、軍の規律が乱れる前にと、玉砕命令を出した。18軍の兵士9万6944人のうち、生還者は8827人だった。
日本・パプアニューギニア協会の島田さんは、祖父がニューギニア島で戦死した3世だ。
軍幹部だった堀江さんと遺族との気持ちの温度差を分かりやすく説明してくれた。
「堀江さんとしては、全員が勇敢な兵士であった、と考えます。でも、
遺族は、どうして父や祖父は死んだのか、戦況はどうだったのか、が知りたいのです」
うんうんとうなずく。
「堀江さんとしては、記憶を加工したわけではなく、国の政策を肯定するために口をつぐんだわけでもない。
堀江さん自身、無謀な戦いだったと思っていたし、19世紀の冒険家の地図を見て、
行ってみろと山越えを命じるなんて『ありえない』と怒っていましたよ。
ただ、亡くなった戦友の名誉を守りたかった、名誉を冒とくすることは耐えがたかったのだと思います」
堀江さんの気持ちは分かる。だが、死んだ者のためであれ生き残った者のためであれ、
誰かの名誉のために事実を否定し、隠したら、後世の人間はそこから学べない。
しのぶ会の会場で、さらに話を聞いて回った。=つづく
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◎ 「部下は見殺し」「人の肉食べ生き残った」 元兵士たちの証言 (2022.12.10、毎日)
https://mainichi.jp/articles/20221206/k00/00m/040/505000c
パプアニューギニアで死んだ私の祖母の弟、新井進さん。
同じ土地から帰還した兵士の遺族は現地で起きた本当のことを話してくれた。【國枝すみれ】
鉄砲玉の下をくぐっていない人
「父は文字通り死んだ戦友のおかげで生き延びた」
6月に開かれた、パプアニューギニアから帰還して遺骨収集にも力を注いだ堀江正夫さんをしのぶ会。
その会場で記者の隣に座った宮大工の辻本喜彦さん(75)はそうつぶやいた。
辻本さんの父は、1942(昭和17)年に山脈越えでポートモレスビー攻略を目指した南海支隊に所属する独立工兵隊の一員だった。
ギルワの陣地が敵に包囲されるも、戦死体を積み上げた野戦病院の一角だけは包囲網に穴が開いていた。
腐臭で敵が近づけなかったからだ。雨の夜、息を殺してその穴を通り抜けて脱出したという。
「父は戦争中の体験を詳しく話さなかったけど、死後に戦友たちがいろいろ教えてくれた。
辻本さんによると、「将校は部下を見殺しにした」とし、堀江さんが主催する慰霊祭への参加を拒否する人がいた。
帰還兵が集まる戦友会では、すさまじいけんかが起きることもあった。
負傷兵を背負い、必死の思いで部隊の駐屯地まで戻ったところ、上官は「大の虫を殺すか、小の虫を殺すか、よく考えろ」と怒鳴った。
そして軍医に命じて、負傷兵に何かを注射して殺したという。
「あんた、あのとき(殺害を)命令したじゃないか!」と詰め寄る部下。「覚えていない」とすっとぼける上官。
辻本さんは言う。「戦友たちは、今言わないと死んで言えなくなってしまう、と俺にいろいろ話してくれた。
戦争っていうのはそういうものなんだよ、と」
仲間の肉も食べた
辻本さんも参加した戦友会で「敵兵を食べた」という話が出た。
上官が「野豚を狩ってきたからみんな食べろ」と部下に鍋をふるまったが、実は人肉だったという。
この上官は「ウソを言って食べさせたのだから、俺が責任をとる。
知らずに食べたお前たちは先に帰れ」と部下たちを最初の引き揚げ船に乗せた。
最初は敵兵だけだったが、次第に仲間の日本兵も食べるようになった。
草賀類子著「ニューギニア・還らざる兵士」に第20師団主計大尉だった小畑耕一さんの証言が記録されている。
ニューギニアで父親が戦死した武藤孝行さん(手前)=東京都内のホテルで22年6月15日、國枝すみれ撮影
45年になると、軍司令部が人肉を食った者は死刑にすると命令を出すほどに状況が悪化。
逃亡兵がジャングルで待ち伏せて仲間を襲うようになり、小畑さんの知人の軍曹は部下に殺されて食べられてしまった。
大学医学部の教授だったある陸軍中尉は「どうせ死ぬ兵隊なんだ」と開き直り、人肉食を認めて死刑になった。
防衛研究所戦史研究センターの柴田武彦さん(66)は「複数の生還者が人肉食にふれています。
そうした手記に対して、反論や疑義が出たこともありません」と話す。
ニューギニアで遺骨収集
武藤孝行さん(80)にも会った。父親が戦死した遺児で、日本戦没者遺骨収集推進協会のパプアニューギニア地区担当を務めている。
ロシアを1回、パプアニューギニアを18回も訪れて遺骨を収集してきた。
遺骨収集に行けるのは年1、2回。モーターボートやヘリコプターでしか到達できないような辺ぴな場所もある。
天候が急変するため、ヘリはエンジンをかけたままで数カ所をカエル跳びに移動し、住民に集めてもらっていた遺骨を回収する。
遺骨を発見し保管してくれた住民には手間賃を払っている。
敗走を重ねた日本軍は、戦友を地中に埋めていく力がなかった。
どこで何人死んだかも分からない。行き倒れた兵士は数週間で白骨化し、獣に荒らされて、密林にのみ込まれた。
一方、連合軍は勝ち組だから、現地に戻って遺体を持ち帰ることができた。
連合軍が日本兵の遺体を埋葬している例もある。
日本政府は2016~17年、米国や英国のほかオーストラリア、ニュージーランドの国立公文書館や議会図書館などから
戦闘報告書や捕虜関係記録を収集している。
パプアニューギニアでは約12万7600人が戦死したが、約7万6200人の遺骨がまだ収容されていない。
20年までに収集された5万柱超の遺骨の大半は「手がかりがない遺骨」として現地で焼骨され、
DNA鑑定ができる遺骨はわずか280柱しかない。
進さんの遺骨を見つけることは砂漠に落とした指輪を見つけるようなものかもしれない。
でも技術は進歩する。DNA鑑定の本格化でどこまで身元は判明するのか。遺骨はどのように収集するのか。
取材を続けることにした。=第1部終わり。第2部は来年2月ごろ予定しています。
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◎ 「死んでも帰れぬニューギニア」元帰還兵の手記 孫らが引き継ぎ展示(2022.12.13、朝日)
https://www.asahi.com/articles/ASQDF55D9QDFTIPE01S.html?iref=pc_ss_date_article
太平洋戦争の開戦から今月で81年。戦地で多くの戦友を亡くした元日本兵が書き残した手記などの展示会が、
福岡県福津市で開かれている。主催したのは、
思いを引き継いだ息子と孫。ロシアのウクライナ侵攻や米中対立など国際関係の緊張が増す中、
「戦争が残す深い傷について考えてほしい」と訴えている。
手記を残したのは、福津市の故・深田武次郎さん(旧姓・広渡)。
20歳で陸軍に召集され、開戦約1年後の1943年1月、
野砲兵第26連隊の一員としてニューギニア島東部(現パプアニューギニア)に送られた。
「死んでも帰れぬニューギニア」とも言われた過酷な戦場。多くの戦友が目の前で死んでいった。
武次郎さんは戦後、当時の体験を少しずつ書きためたり、旧陸軍の軍服や装備品などを集めたりした。
そうしたメモやノートを元に、息子の深田政武さん(69)、孫の麻紀さん(41)がパソコンで清書した。
武次郎さんは2012年に91歳で亡くなるまで「戦争を忘れたらいかん。生き残った者の務めだ」と2人に語っていたという。
今回の展示では、武次郎さんの収集品約400点の一部や、手記から抜粋した内容を記したカードなどを見ることができる。
真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦で19歳で亡くなった地元出身の海軍兵の手紙のレプリカもある。
麻紀さんは、「戦争を史実として知っているだけではすまされなくなっている。
戦争が起きたら、巻き込まれるのは庶民であり、それまであった日常ががらっと変わってしまう。
自分や親しい人に置き換えて考えてほしい」と語る。
福津市津屋崎4丁目の「津屋崎千軒民俗館 藍の家」で、16日まで。藍の家(0940・52・0605)。(杉山あかり)
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◎ 森健良外務事務次官とエリアス・ラフロモ・ウォヘングパプアニューギニア独立国外務次官との意見交換
(2022.12.19、外務省)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press1_001217.html
12月19日、午前11時30分から約20分間、森健良外務事務次官は、
戦略的実務者招へいにより訪日中のエリアス・ラフロモ・ウォヘング・パプアニューギニア独立国外務次官
(Mr. Elias Rahuromo WOHENG, Secretary, Department of Foreign Affairs, Independent State of Papua New Guinea)と
意見交換を行ったところ、概要は以下のとおりです。
冒頭、森次官から、ウォヘング次官の訪日を歓迎するとともに、パプアニューギニアは、太平洋島嶼国地域の安定と繁栄の要であり、
天然資源の貿易等を通じて日本と強固な絆で結ばれている旨述べた上で、
「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向け、引き続き両国で協力していきたい旨述べました。
これに対し、ウォヘング次官から、長年にわたる日本からパプアニューギニアへの支援について謝意を述べるとともに、
地域の情勢が急速に変化する中で、日本との二国間関係を更に発展させていきたい旨述べました。
両者は、二国間関係や太平洋島嶼国情勢について意見交換を行い、
来年の太平洋・島サミット中間閣僚会合及び2024年の第10回太平洋・島サミットに向けた議論を含め、
両国で連携していくことを確認しました。
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