vol.338(8月21日)
★★・‥…―━━━―…‥・・‥…―━―…‥・・‥…―━━━―…‥・★★◎ あなたはいつ船を降りるのか、降りないのか?(2023.8.9、日経ビジネス)
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00562/080700008/
今年もお盆がやってくる。
仏教ではご先祖様があの世から帰ってくる期間とされている。
来週は夏季特別編成とかいうことでお休みをいただくことになり(やれやれ)、
ちょっと早いがこんなお話でどうだろうか。
妖怪マンガの巨匠・水木しげるが、第2次世界大戦中に従軍してパプアニューギニアに派遣され、
左腕を失う重傷を負った、というのはそこそこ知られた事実である。
彼の戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は、従軍体験なくしては描けない強烈な内容であり、全国民必読、とすら思う。
所帯を持って現地除隊?
一方で水木には奇妙にすぽんと抜けた明るい感性もある。
彼は戦争の地獄の中で現地住民と仲良くなり、食べ物などをもらっていた。
居心地が良かったものだから敗戦後、日本に帰還するという段になって「ここに残りたい」と言いだし、
懇意の軍医から「一度ご両親に会ってからにしたらどうだ」と諭され、それで帰国している。
そのまま残留していれば、『ゲゲゲの鬼太郎』も『悪魔くん』も『河童の三平』もなかったのだ。
軍隊を除隊するにあたって、故郷に帰ることなくその場に残ることを、現地除隊という。
明治以降、大日本帝国はせっせと海外に派兵したので、現地除隊した兵士の数もそれなりにいた……らしい。
「らしい」というのは、現地除隊という制度をうまく歴史的に概観できる資料を、まだ見つけられないでいるからだ。
とはいえ、国立国会図書館や国立公文書館アジア歴資料センターで検索すると、
昭和初期の基礎文献らしきものがいくつか見つかり、
ありがたいことにネット経由で閲覧が可能なので、ぽちぽちと調べているところである。
私が現地除隊という制度に興味を持ったのは、第1次世界大戦の青島攻略以降、
日本陸軍が現地で阿片(アヘン)取引による裏金づくりに手を染めたという話を追う中で、
実際の阿片取引を担ったのが、現地除隊した元兵隊だったという記述を見つけてからだった。
日本陸軍の阿片による裏金づくりは、1930年代に入ってからの満州国の甘粕正彦や、
上海で秘密結社の青幇と結んだ里見甫(さとみ・はじめ)が有名だが、
そもそもは1914年にドイツの租借地だった青島を攻略・占領した時期から始まっているのである。
注記2:大日本帝国と阿片の関係は、近年歴史研究が進み、かなりのことが解明されつつある。
宣伝になるが、私は大学の教科書などを出版している裳華房が出しているメールマガジンで、
このあたりの関連図書を紹介している。よろしければ読んでみてください。
https://www.shokabo.co.jp/column/
兵隊は軍の行き先を選ぶことはできない。自由意志とは別の、権力の決定で、
それまで考えてもいなかった場所に連れて行かれたのだ。
そこで帰国ではなく現地除隊を選ぶにあたっては、いったいどんな事情があったのだろう。
なんとなく「現地の女性と懇ろになって」とか「大きなもうけ話があると誘われて」とか想像するが、
本当にそういうケースが多かったのかは分からない。
案外、水木しげるのように「現地になじんでしまって」という場合が多いのかもしれない。
類似のケースとして、敗戦後、現地の軍隊に協力して独立戦争を戦ったという人もいて、
むしろそれらをまとめて、「政府の都合で、国外に出ざるを得なくなり、
そのまま現地に居着いた人」とくくったほうがよいのか、とも考える。
とするなら海外に活路を求めざるを得なかった人々――古くはからゆきさんのような娼婦、
明治以降の貧困に背中を押されての海外移民、あるいは国策としての満州開拓に駆り出された満蒙開拓青少年義勇軍――
なども大きくは「自分以外の意志に蹴飛ばされるようにして国を出た人」というくくりで考えるべきなのかも、だ。
聞いた話だが、日本の大手海運会社には「現地駐在員として赴任して、
そのままその国に移住する」社員のための担当部署がある(あった)そうだ。
時代、職種を問わず、ある種の人にとって、現地除隊……というか日本に帰ることなく現地に定住し、
場合によっては骨を埋める、というのはごく当たり前の行為なのかもしれない。
そう思い至ったのは、最近になってトマトスープ(というペンネームのマンガ家さんです)
の『ダンピアのおいしい冒険』というマンガを読んでからだ。
主人公は17世紀から18世紀にかけての世界旅行者にして博物学者、海賊にして旅行記作家のウィリアム・ダンピア(1651~1715)。
この時代に、世界一周を3回成し遂げ、パプアニューギニアのウンボイ島とニューブリテン島の間にあるダンピア海峡にその名を残す。
彼の著作『最新世界周航記』は翻訳されており、岩波文庫で入手可能だ。
ここで「ダンピア海峡は、かつて日本ではダンピール海峡と呼ばれていた」と書くと、
ミリタリーマニアは息をのむかもしれない。1943年(昭和18年)3月2日から3日にかけての“ダンピール海峡の悲劇”こと、
ビスマルク海海戦の舞台である。
「全滅覚悟でやってもらいたい」
昭和18年初頭の段階で、パプアニューギニアに進出した日本軍は反攻をかける米軍に対して劣勢に立たされていた。
事態を打開するために大規模な船団によるパプアニューギニア各所への兵と物資の補給作戦が計画される。
ところが、すでに制空権は米軍が押さえており、輸送船団は米軍機による攻撃で撃破される可能性が非常に高かった。
現場は「敵航空戦力に全滅させられるだろうから、中止すべきだ」と主張したが、
艦隊参謀は「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と押し切った。
現場が無理と判断した作戦を強行した結果は悲惨だった。
日本側は米軍の航空攻撃によって輸送船8隻全てと駆逐艦4隻を沈められ、
乗っていた陸軍第51師団7000人の約半数(3000人以上)が死亡。
加えて砲、弾薬、燃料、食料などの大量の物資を失うという惨たんたる結果に終わった。
水木しげるは、ダンピア海峡に面するニューブリテン島で兵隊生活を送っており、
マンガ家歴初期の戦記マンガにはそのものずばりの『ダンピール海峡』というタイトルの作品もある。
ダンピール海峡で船を沈められ、それでも軍旗を守ろうとして死んでいく兵士の話である。
その意味では、ウィリアム・ダンピアと水木しげるは、かなり濃い縁で結びついている。
大西洋を渡り南米大陸東岸を南下、マゼラン海峡を通過して太平洋へ――
『ダンピアのおいしい冒険』はダンピアのたどった最初の世界一周航海の足跡を追っていく。
史実では彼は1679年に英国を出発しているのだが、
マンガは1683年に歴史に名を残す海賊ジョン・クックの海賊船に航海士として乗り組むところから始まる。
彼は知的好奇心の赴くままに、海賊の仲間となり海賊船に乗り込んだ。
海賊といってもただのならず者ではなく、国が発行した私掠(しりゃく)免許状を持つ、私兵というべき存在だ。
航海の過程でダンピアは多くの仲間と出会い、また別れていくのだが、別れのシーンでは、
実にあっさりと船を降りていく者が多い。ダンピア自身も、時に船を降りて仲間と別れ、また別の船に乗り組んで旅を続けていく。
船を降りる人の考え方
これはマンガであって、ダンピア本人の著作に基づくフィクションとして構成されている。
だから書いてあることが即史実だと思ってはいけない。
が、読んでいて私は気が付いた。
そうか、17世紀から18世紀にかけて、国を離れて、遠く海へと乗り出すということは、
即「帰れない覚悟をする」ということだったのだ。
だからこそ、「降りたほうが運命が開ける」と判断すると、すぐに船を降りる。
どこで終わってもおかしくない命だからこそ、故郷に帰ることに執着せずに、
その時その時で最善と思えるなら、あっさりと船を降りるのだ。
おそらくは、そのような判断ができる資質を持った者が、
船に乗り、国を出ていたのであろう、と私は納得した。
故郷に帰ることを熱望する者は、そもそも故郷を離れない。あるいは帰れるという確証を得ないと国を出ない。
フィクションたるマンガで物事を判断するのもナニなのだが、ダンピアとその仲間たちは、
水木しげるやダンピール海峡で海の藻くずと消えた日本兵たちとは異なり、
自分で自分の運命を選び取っていたのだろう。
運命は全てを自分で決められるものではないから、全部が全部意志的というわけではないだろう。
が、それでも自分の意志で船に乗り、新大陸アメリカ沿岸での海賊稼業に身を投じたのだ。
このタイプの人にとっては、故郷に帰ることなく現地に定住し、骨を埋めることはごく自然に
「あり得ること」だったのだろう。
自分の意志で選んだことならば、結果もまた堂々と胸を張って甘受することが可能になる。
そこは、国家の意志で是も非もなく徴兵され、船に詰め込まれて、
それまで意識したことすらなかった遠い土地に連れて行かれた者とは、
先の見通しが違っていたと考えるべきなのだろう。
現地除隊もフィクションになると、もっと話は広がる。
谷甲州のSF小説『航空宇宙軍史』シリーズには、大陽系を出て他の恒星系へと進出していく航空宇宙軍という軍隊の現地除隊、
なんてものがさらっと出てくる。地球を離れイスカンダルに住み着く、みたいなものだが、
現地で待つのは松本零士描くところの細身長身の美女とは限らない。
谷甲州は、「寒い、暗い、ひもじい、怖い」の山岳小説の名手でもあって、
そんな作者がSFの中でさらりと言及する他惑星系での現地除隊も、
きっと「寒い、暗い、ひもじい、怖い」なのだろうと想像する。
SFではなくファンタジーとなると、
映画「秘密兵器リンペット(The Incredible Mr. Limpet)」(1964年 アーサー・ルービン監督)が味わい深い。
主人公のヘンリー・リンペットは、こよなく魚を愛する気弱で小柄な男だ。
時は1941年10月、欧州の大戦はますます激しく、米国内でも愛国的機運が高まっていて、
雰囲気に乗った奥さんベッシーは、ヘンリーを「あなたも軍隊に志願したら」と罵る。
そんなリンペットが、海に落ちて溺れたことで、なんと魚に変身してしまう。
憧れていた魚となって海の世界に乗り出したリンペットはやがて、「しゃべる魚」として
、ナチス・ドイツの潜水艦艦隊と新型魚雷を相手に大立ち回りをして武功を立てることになる。
この映画は、「ロジャー・ラビット」(1988年)よりも24年も早く、
実写とアニメーションの合成を行っているという点で映画史に名を残している。
人間の社会は実写で、リンペットが変身して乗り出す海の世界はアニメーション。
魚となったリンペットと人間との会話は実写とアニメーションの合成で描かれる。
旅人は帰らない
ストーリーは、よくある願望充足系といってよいだろう。
昨今のライトノベルなら「どこかここではない異世界に転生して、元の世界のスキルを生かして縦横無尽に活躍」というやつだ。
が、この映画の一番の特徴は主人公のリンペットが「帰ってこない」というところにある。
異世界といっても同じ地球の海の中であり、しかも母国の海軍と協力して敵国相手に大活躍するのだから、
順当に描くなら、やがて変身が解けたリンペットが人間の社会に凱旋し、
英雄として受け入れられるというサクセス・ストーリーにならなければおかしい。
が、この映画では、リンペットは人間に戻らない。魚の世界で友達をつくり、魚の世界で恋人をつくり、
ベッシーと別れ、最後は海の世界へと去って行くのである。
ラストは1963年、米海軍は奇妙に海のイルカが利口になっているのに気が付く。どうやら海のどこかで、
リンペットがイルカたちを教育しているらしい。夕暮れの波止場から海に向かって海軍軍人らが
「おーい、リンペット」と呼びかけるシーンで、映画は終わる。
かつて民放テレビ局は、視聴率の下がる昼の時間帯に、放映権を買い付けたアメリカ映画を穴埋めのように繰り返し放送していた。
「秘密兵器リンペット」はそんな中の一本だったのだろう。
私は小学生から高校までの間に数回、この映画をテレビ放送で見た。
そのたびに、人間に戻ることなく魚の身のまま海の世界へと消えていくリンペットにショックを受けた。
本稿の主題である「現地除隊」にひっかけるならば、
リンペット氏は心ならずも引き込まれた海の世界で現地除隊して、そのまま帰ることなく海の中へと消えていったのである。
なにかセンチメンタルになっているな、私。そもそも自分が「現地除隊」という言葉に惹かれるのは、
「行ってしまって帰ってこない人々」に対する憧れと畏怖の両方を抱いているからだろう。
しかし、「行ってしまう」という言葉を時間軸方向にも拡張するなら、
我々は誰もが「行ってしまって帰ってこない人」なのだ。
生まれたばかりの赤ん坊の自分はもういない。
若い時の自分ももういない。「今の自分」を抱えつつ、決して戻ることなく未来へと流されている。
我々はみな「常に未来に向かって現地除隊し続けている存在」とも定義できるのである。
そして、「永劫の或時にひからびる」。
西脇順三郎の『旅人かへらず』だ。
永劫の根に触れ
……
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず
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◎ パプアニューギニアの希少なチョウ紹介 昆虫写真家・
海野和男さん 小諸高原美術館で展覧会(2023.8.13、信濃毎日新聞)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023081300134
小諸市立小諸高原美術館・白鳥映雪館で20日まで、
市内にアトリエを構える昆虫写真家の海野和男さん(76)の写真展が開かれている。
ニューギニア島やソロモン諸島で撮影した大型のチョウのトリバネアゲハ類を中心に、約100点が飾られている。
海野さんは昨年9、10月にパプアニューギニアに滞在。
世界最大のチョウとされるアレキサンドラトリバネアゲハを撮影した。個体数が少ないといい、
3週間ほど同じ森に通って捉えた雄が飛び立つ貴重な1枚を展示。
森の中を飛んだり産卵したりする雌の姿も撮影した。
昆虫写真家や写真家を目指す、10~20代の若者8人が撮った写真の展示コーナーも設置。
海野さんは「昆虫の面白さや若い人の情熱を見てほしい」と話している。
12日は小諸市立小諸図書館で海野さんのトークイベントもあった。
会期中は14日が休館。大人500円、高校生以下無料。
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◎ 特定外来生物のチョウ、アカボシゴマダラが上伊那に定着か 駒ケ根市で4匹確認
(2023.8.13、信濃毎日新聞)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023081300383
駒ケ根市立博物館の専門研究員で日本鱗翅(りんし)学会員の田中邦治さん(72)=駒ケ根市北町=が今夏、
特定外来生物のチョウ「アカボシゴマダラ」の成虫計4匹を市内で見つけた。
関東圏から県内全域で生息域が拡大しており、在来種への影響が懸念されている。
田中さんは「見つけたら捕まえて育てたり、移動させたりせず、研究機関に報告して」と呼びかけている。
アカボシゴマダラは中国から日本に入ってきたチョウで、羽に並んだ赤い斑紋が特徴。
幼虫は在来種のオオムラサキやゴマダラチョウと同じエノキやエゾエノキの葉を食べるため、
競合が懸念され、環境省が特定外来生物に指定している。
田中さんは7月28日、同市下平にあるクヌギの木で樹液を吸う2匹を発見。
8月2日にも同じ場所で別の2匹を見つけた。
今回見つかったのは羽化したての成虫とみられ、田中さんは「上伊那地域で確実に定着している」としている。
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◎ <戦後78年>戦場つづった手帳 帰還(2023.8.15、読売オンライン)
https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20230814-OYTNT50114/
ニューギニアで戦死の伯父 遺品初めて見つかる
太平洋戦争の激戦地だった東部ニューギニア(パプアニューギニア)で戦死した池田市出身の山本正雄さん(当時28歳)
の手帳が昨年秋、オーストラリアの元軍人の家族から遺族に返還された。
15日で終戦から78年。正雄さんの遺品が見つかるのは初めてだといい、
おいの正さん(72)は「手帳には過酷な戦闘の様子が記されていた。
前途ある人を死に追いやる戦争を二度と起こしてはならない」と願う。(滝口憲洋)
正雄さんは1941年、陸軍に入隊。高射砲部隊に所属し、東部ニューギニア戦線に赴いた。
「P40機来襲 砲隊ハ之ヲ迎撃シ3機ヲ撃墜ス 今井中尉、今西、坪田戦死 18時ヨリ告別式」
「本日モ元気ニ過ス 神仏ニ感謝ス」
「憎き奴等なれど致し方も無し 今に見て居れと只にらむのみ」
米豪連合軍の苛烈な攻撃にさらされ、「死んでも帰れぬニューギニア」と言われ、
同戦線に送られた日本兵約15万人のうち生還したのは1万人余りだった。
正雄さんがニューギニア島北岸のウェワクで45年5月24日に戦死した、
と遺族に伝えられたのは終戦の1年後の46年9月で、遺骨も遺品も戻らなかった。
山本家の長男だった正雄さんは、戦地からの手紙でいつも母や弟、妹の体調を気遣っていた。
帰りを待ちわびた母、 寿とし さんは、わずかな痕跡でも探し求めようと、
「ニューギニアに行く」と何度も口にしていたが、78年に84歳で亡くなった。
ところが、昨年10月、正さんのもとに突然、府から正雄さんの手帳について連絡が届いた。
オーストラリアの女性が、軍人だった父親の遺品の中に日本語が書かれた手帳を見つけ、
「返したい」と日本の外務省などを通じて伝えてきたという。
女性の父親は連合軍の一員として東部ニューギニアの戦闘に加わり、現地で手帳を手に入れたとみられる。
「所属部隊 南海派遣 猛第七四六七部隊(中略)陸軍曹長 山本正雄」
手帳は縦11センチ、横7センチ。署名や本籍地、所属部隊などの記載から正雄さんの物だと特定された。
日付と出来事が書き込まれ、正さんは「写真でしか見たことがない伯父の手帳が、
巡り巡って自分の手元に届いたのは不思議な縁だ。よくぞ戻ってきた」と感慨深い様子で話す。
財産は母親に残す、と記した「遺言」もしたためられていたが、何も書いていない日も多かった。
正さんは「書ける状況ではない日があったのだろう。砲弾の飛び交う密林で仲間を失いながら、
耐え忍んで書き残したのでは」と思いやる。
正雄さんの母、寿さんの45回目の命日だった今年7月25日、改めて仏前に手帳を供え、
「ゆっくり見てください」と手を合わせたという正さん。世界ではロシアのウクライナ侵略などの紛争が後を絶たず、
「戦争の悲惨さを心に刻み、我々が戦争のない未来をつくっていかなければ」と語った。
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◎ ブーゲンビル島で戦死した兄 現地で遺体埋葬場所を特定【熊本】(2023.8.16、テレビ熊本)
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20230816-00000006
≪このニュースは、上記URLから記事を閲覧すると、You Tubeで、動画が閲覧できます≫
熊本市に住む91歳の男性が太平洋戦争の激戦地・ブーゲンビル島で戦死した兄の遺骨を探していることを以前、
お伝えしましたが、この夏、現地で遺体を埋葬したと思われる場所が特定されました。
【槌田 春義さん(91)】熊本市西区在住
「熊本駅で見送りしまして、万歳万歳で見送りした。遺骨は、石ころが入っているだけだった。
それがお墓に入っている」
熊本市に住む槌田 春義さん 91歳。
太平洋戦争の激戦地・パプアニューギニア領ブーゲンビル島で戦死した兄・直人さんの遺骨を探しています。
1943年・昭和18年11月から終戦まで続いた『ブーゲンビル島の戦い』に、
熊本の旧陸軍第6師団から約3万2000人が派遣され、2万人以上が亡くなりました。
県出身の戦死者は5000人以上と推定され、そのほとんどの遺骨が現地に眠ったままです。
槌田さんの兄・直人さんはブーゲンビル島のマツンケイという場所で塩を作る製塩班の班長を任されていましたが、
作業中に機銃掃射を受け亡くなったそうです。
(*1944年9月戦死・享年25)
マツンケイで亡くなった日本兵は槌田さんの兄・直人さん1人だけで、
これまで国による遺骨収集が行われた記録はありません。
【槌田 春義さん(91)】
「私の余生も限られているから全財産を投じてでも探して遺骨を持って帰りたいという気持ちを持っています」
去年12月、槌田さんはブーゲンビル島出身のレベッカ・マニアコさんから
兄が亡くなったマツンケイについて話を聞くことができました。
【レベッカ・マニアコさん】
「現地の人の間でも、どの辺りに日本の兵隊さんが埋められたとか、そういうことが代々伝わっている。
そこに住んでいる家族が自分の母親と親しかったので、私も行ったことがある。
親戚でもあるし、すでにこの件について話を進めている」
県ブーゲンビル島会ではレベッカさんを通じて現地とやりとりを続け、今年6月
、国の遺骨収集事業に参加経験のある黒木 伸男 理事を事前調査に派遣することにしました。
【熊本県ブーゲンビル島会 黒木 伸男理事】
「(行く場所は)マブアニと言って、日本名はマツンケイ。
同じ地名です。当初は川を船でさかのぼって探す予定でしたが、川はワニが多くて危険で入れないということで、
ジャングルの中を歩いて捜索予定ですね。実際は行ってみないと分からない状況ですね」
6月下旬、日本から丸2日間かけてブーゲンビル島に到着。
その後、車で時には道なき道を走り、ボートでマツンケイを目指します。その途中に重要な情報が入りました。
【熊本県ブーゲンビル島会 黒木 伸男理事】
「マツンケイ出身のジェトロ・ベンという方で、小さいころに友達とそこでヤシの実をとって遊んでいたら、
おばあさんが『そこは日本兵を埋めている所だから、近寄ってはいけないよ』と。それで、場所を確認したと」
マツンケイに着きジェトロ・ベンさんの案内で日本兵が埋められているという場所に向かいました。
【通訳】
「ここの場所。ここで亡くなった」
*そこには大きなアーモンドの木があった*
【通訳】
「これ、銃の痕」「撃って、全部穴が開いている」
ベンさんは「このアーモンドの木に機銃弾が当たり、塩を作りに来ていた日本兵が
1人亡くなったと聞いている」と教えてくれました。
*木は8人が手をつなぐ大きさ*
*ハーモニカで「ふるさと」を演奏*
*みんなで線香をあげる*
【熊本県ブーゲンビル島会 黒木 伸男理事】
「ありがとう。サンキュー」
亡くなった日本兵はその後、アーモンドの木から少し離れたヤシの木の周辺に埋葬されたことも言い伝えられていました。
【熊本県ブーゲンビル島会 黒木 伸男理事】
「ここで日本兵が塩を作っていて、飛行機の銃で撃たれて亡くなったという現地情報と、私たちが聞いている情報が同じで、
ここで語り継がれている。この時に私が思ったのが、お兄さんが待っていたなと。
ここまでぴったり合うこはない」
槌田「埋葬者は1人?」
黒木「1人」
槌田「そうすると、可能性があるな」
【槌田 春義さん(91)】
「検体を持ってきてほしいと思っていたんですが、それは無理なんですね」
【熊本県ブーゲンビル島会 黒木 伸男理事】
「それはできないですね。日本の厚労省から遺骨鑑定人が行って、
日本側とパプアニューギニア側の遺骨鑑定人の許可がないと持ってこれないんです」
調査に同行したレベッカさんからメールが届いていました。
【レベッカさんからのメール】
「今回の調査で、槌田さんのお兄さんの埋葬場所と思われる確かな情報があった。
次の展開を期待している」
【槌田 春義さん(91)】
「きょうの報告を見ましてね、これはもう、どうも間違いなさそうだなということで、いま驚いています。
おそらく当時、現地の人と協力関係があったから埋葬場所が語り継がれたのではないかと。
本当は現地に行って感謝したいぐらいなんですが、この体でどうなるか分かりませんが、
体調を整えて(現地に行くことが)できればなと思っています」
*兄の墓参りをする槌田さん*
【槌田 春義さん(91)】
「お盆に墓参りに来ますけど、ここに(遺骨が)入っていないのが悲しくてしょうがなかったんです。
今度、ここ(お墓)に入ってもらうよ」
県ブーゲンビル島会では今回の調査結果を厚労省などに報告し、
1日も早く遺骨収集が行われるよう働きかけるということです。
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◎ ニューギニア航空、A220を11機導入 25年以降に初号機、フォッカー置き換え
(2023.8.17、Yahoo/Aire Aviation )
https://news.yahoo.co.jp/articles/bf89143677b2df691811c76963140220b0d73b5c
パプアニューギニア国営のニューギニア航空(ANG/PX)は、エアバスA220型機の新造機を11機導入する。
経年機となった近距離路線用のフォッカー機を置き換える。導入は2025年以降を予定する。
同社がリージョナル機の新造機を導入するのは初めて。
A220はメーカー標準座席数が100-130席のA220-100と、130-160席のA220-300の2機種あり、ニューギニア航空はいずれも導入する。
現在は1クラス80席のフォッカー70を6機、2クラス101席(ビジネス8席、エコノミー93席)のフォッカー100を7機保有しており、
機齢はいずれも30年前後経過している。
ニューギニア航空は機材更新を進めており、ボーイング787-8型機も2機発注済み。
A220と合わせて13機分で25億5000万キナ(約1023億4500万円)を投じる。
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◎ 米国国際開発庁長官、パプアニューギニアの電力アクセスと保健衛生に注力(2023.8.19、大紀元)
https://www.epochtimes.jp/2023/08/168657.html
米国が太平洋島嶼国(PIC)に対する新たなコミットメントを強調するなか、
米国の国際援助機関が数百万ドルの人道支援とパプアニューギニア(PNG)への太陽光発電プロジェクトを発表した。
米国国際開発庁(USAID)のサマンサ・パワー長官は、2023年8月中旬、地域拡大ミッション開設のため、
パプアニューギニアとフィジーを訪問した。
パプアニューギニアの首都ポートモレスビーでは、米国国際開発庁のプレゼンスが3か国のプログラムを監督する駐在員事務所に昇格し、
パワー長官は、この変更は「パプアニューギニアとより広い地域へのコミットメントの深化の反映」であると述べた。
さらに、「パプアニューギニアだけでなく、ソロモン諸島やバヌアツにも投資できるよう、
資金やスタッフなどより多くのリソースを確保する」と、ジェームズ・マラペ首相との記者会見で語った。
フィジーでは、パワー長官は太平洋島嶼国9か国と協力する地域ミッションの刷新を強調した。
米国は、2022年9月に開催された太平洋諸島の指導者たちとのサミットで、
米国国際開発庁のプレゼンス拡大の計画を説明した。
中国は、台湾を外交的に孤立させ、独自の国際機関を構築しようとする中で、
数十年にわたり、発展途上の太平洋島嶼国にとって、貿易、インフラ、援助の重要な供給源となってきた。
中国とソロモン諸島の関係は、ソロモン諸島が2019年に外交承認を台湾から中国に切り替えて以来、大きく進展した。
2022年には、中国とソロモン諸島は安全保障協定に調印し、米国とオーストラリアなどの同盟国を警戒させている。
2023年5月、パプアニューギニアと米国は防衛協力協定に調印し、米国軍は同国内の6つの空・海港にアクセスできるようになった。
パワー長官はパプアニューギニアに約10億円(約740万ドル)の支援を発表し、HIV予防活動の拡大を約束した。
「今日、米国とパプアニューギニアの同盟関係がまた新たな記念すべき章を迎えた」とマラぺ大統領は述べた。
この援助には、シンガポールのエネルギー会社と共同で中央州に建設する太陽光発電ミニグリッドへの
約1億7,500億円(120万ドル)も含まれており、
最終的には約800世帯と約30の企業に信頼性の高い電力供給を行う予定だ。
2021年、米国はパプアニューギニアの電力供給の改善に約83億円(約5700万ドル)を割り当てた。
電力網に接続されている住民は推定13%だ(ただし、太陽光発電などのオフグリッド・エネルギーを含めると、
アクセス率はそれより高い)。
この資金により、20万世帯が電気を利用できるようになると予測されている。
これは、2018年に発表されたオーストラリア、日本、ニュージーランドとの共同計画の一環で、
パプアニューギニアが2030年までに人口の70%を信頼できる電力に接続できるよう支援するものだ。
パワー長官が発表した米国国際開発庁の援助には、火山の噴火によって人々が避難している
ブーゲンビル自治区の災害救援や、災害への備え、栄養失調対策への資金も含まれている。
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