メルマガ・広報誌

vol.378(8月20日)

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◎ 特定非営利活動法人 HANDS 様より(PNG地滑り被害義援金)へのお礼状をいただきました。
添付にて皆様へ送付させていただきました。

 尚、今回のエンガ州での地滑り災害と援助の詳細につきましては、HANDSより寺田様をお招きして、次のとおりTOKTOK会を開催いたします。
詳細は追ってご案内いたします。

11月21日(木曜日)1830より 懇親会も実施いたします。
会場:銀座線三越前徒歩3分 東レ社員クラブ (日銀北門正面)

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◎    何で兄貴こんな姿で」兄2人が戦死 戦地からの手紙と癒えぬ悲しみ
(2024.8.13、UTYテレビ山梨) 
https://news.goo.ne.jp/article/uty/region/uty-1356744.html

戦争体験者の証言をお伝えします。
山梨県南アルプス市の男性は戦地から兄たちが送ってきた手紙を大切に保管してきました。
その手紙は戦争の悲惨さを今に伝えています。
男性は取材に応じていただいてから約2か月後の2023年10月27日にお亡くなりになりました。

男性が私たちに語った最後のメッセージを改めてお伝えします。
=戦地から兄が書いた手紙= 
「郷を遠ざかる戦線では郷土からの便が一番嬉しいですね」
「自分も相変わらず元気にてやって居りますから まず御休心下さい」

塩澤進さん:
「手紙を見れば兄貴と話をしているように感じる」
南アルプス市に住む塩澤進さん、91歳。10歳以上年の離れた2人の兄、
文吉さんと守雄さんが戦地から送った手紙を今も大切に保管しています。
その数19通。隙間なく書かれた手紙は、家族を気遣う言葉で溢れています。
=戦地から兄が書いた手紙= 
「昨夜は家へ帰ってお母さんのお手製の馬鈴薯をうんと食べた夢を見ました」
塩澤さん:
「やっぱり兄貴も故郷が恋しいのかな。
おふくろのジャガイモを煮たのが美味しかったと書いてある」
戦争が始まる前、塩澤さんは2番目の兄、
守雄さんに連れられボロ電に乗って甲府中心街に出かけた思い出があります。
塩澤さん:
「ボロ電に初めて乗って、岡島百貨店でランドセルを買ってくれてね」

2人の兄が戦地へ
幸せだった生活は戦争が始まったことで一変…。2人の兄が、
戦地に行く出征の時を迎えます。
塩澤さん:
「負けるとは思っていない」
小学生だった塩澤さんも喜んで送り出したといいます。
しかし、これが最後の別れになりました。
やがて兄たちから手紙が届くようになります。
検閲を受けているため戦地は明らかにされていませんでしたが、
守雄さんの手紙には南国の風景と分かる丁寧な絵が添えられていました。
塩澤さん:
「今どこで何をしているのだろう。南国ということは間違いないのだけれど」
進さんに向けた手紙も…
=戦地から兄が書いた手紙=
「お前は3年生か。一生懸命勉強してお父さんお母さんを安心させてくれ」
幼い弟を家に残した兄たちの気遣いが垣間見えます。
しかし兄からの手紙も出征から1、2年で途絶えました。
塩澤さん:
「生きているのか、という話しかできなかった。
『無事で帰ってきてくれ』願うのはただそれだけ」

そして終戦
連絡が取れないまま迎えた終戦。届いたのは兄2人の死を伝える知らせでした。
文吉さんは輸送船で硫黄島に向かう最中に攻撃に合い、
守雄さんはパプアニューギニアで銃撃を受け亡くなりました。
26歳、24歳という若さでした。

塩澤さん:
「うちのお袋は気丈な人だったが、泣いて転がった。こんなバカな話があるか、
気丈なおふくろが転がって泣いた。
『おかあちゃん、まだ僕がいるからいいじゃんけ』そう言っても42歳の時に生まれた子どもでしょ。
頼りにできない気持ちがあった。
その時に『よし 兄2人分の親孝行をしよう』と私の青春は親孝行で終わった」
塩澤さんは兄たちの遺骨を受け取りに甲府へ向かい、
木箱を抱えて思い出のボロ電で帰宅しました。
塩澤さん:
「中を開けてみたら名札と落雁菓子が入っていただけ。こんなもんでした」
骨どころか遺品さえ戻ってきませんでした。
塩澤さん:
「何で兄貴こんな姿で帰ってきてしまった。平和の大切さがしみじみわかった」
塩澤さんは兄たちの遺志を継ぎ、教師の夢を諦め、農家の跡取りとして、
ひたすら働き家族を支えました。
塩澤さん:
「(兄たちが)生きていたら、『進よく頑張ったな』って言ってくれるかな」
そして70年以上の時を経て塩澤さんは戦争の語り部としてかつて目指していた教壇に立ち、
平和の尊さを伝えています。
塩澤さん:
「こんな愚かなことをしてはならない。何も残らない」
悲痛な思いと兄の言葉は終戦から78年経った今も色褪せません。
=戦地から兄が書いた手紙= 
「お身体を大切に さようなら」

<写真の説明があるので、URLから閲覧することをお勧めします>

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◎    終わらざる夏 ⑤父がニューギニアで戦死(2024.8.14、日高新報)
https://hidakashimpo.co.jp/?p=94148

 日米開戦から約1カ月後の1942年(昭和17)1月4日、
日本海軍は太平洋南部のニューギニア島東に浮かぶニューブリテン島ラバウルへの航空攻撃を開始し、
19日後の23日にはラバウル上陸に成功、東西2カ所の飛行場地区を占領した。

2月20日からは米海軍との海戦(ニューギニア沖海戦)が勃発し、
3月10日にはニューギニア島東部の連合軍の重要拠点ポートモレスビー攻略を目指して
ラエ、サラモアへの空襲が始まった。

 その後、日本軍はニューギニア島東に突き出た半島北にあるブナに上陸した。
12月に入るとそこから西へ約500㌔離れたマダン、さらに西のウエワクへと進出したが、
翌年1月には米豪の反撃によりブナ守備隊が玉砕。
補給線が伸びきった日本軍は南方戦線への武器・弾薬が届かなくなり、
食糧を現地調達できない上陸部隊は敵に包囲されたジャングルの中で方向感覚を失い、
マラリアや赤痢、デング熱などの感染症、栄養失調で次々と倒れ、
島にいた約20万人のうち生還できたのはわずか2万人だったという。

 いまから10年前の2014年(平成26)7月、
当時の安倍晋三総理がパプアニューギニア(東部ニューギニア)を公式訪問した。
日本の首相としては、1985年(昭和60)の中曽根康弘総理以来、29年ぶりで、
1日目は首都ポートモレスビーで首脳会談を行い、2日目はウエワクに移動し、
昭恵夫人とともに日本人戦没者の碑に花を手向け、手を合わせて戦死者の冥福を祈った。

直後、安倍総理は報道陣のインタビューに応じ、「家族の幸せを願い、祖国を思い、
遠いこの地に倒れた多くの方々の犠牲のうえに今日の平和と繁栄がある。
そのことをあらためて思い、敬意と感謝を込めて手を合わせました。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。(日本は)アジアの友人、世界の友人とともに、
世界の平和の実現を考える国でありたいと誓いました」と述べた。

 日本遺族会は1991年(平成3)度から政府の委託、補助を受け、
戦没者遺児による慰霊友好親善事業として、
戦没者の遺児による戦地を訪問しての慰霊友好親善事業を実施している。
訪問先はグアム島やサイパン島のマリアナ諸島、インド、フィリピン、ソロモン諸島、
中国など15地域があり、毎年、各都道府県の遺族会連合会等を通じて参加者を募り、
希望者は10万円(東京など集合場所までの往復交通・宿泊費等は自己負担)で参加できる。

 昭和の戦争で、御坊市(旧6町村)の戦没者は約1000人、
うち1割以上の148人がニューギニアで死亡した。
藤田町藤井の元県経営者協会専務理事・事務局長塩路茂一さん(84)は
1943年12月、陸軍船舶部隊に所属していた父久五郎(きゅうごろう)さんがウエワクで亡くなった。
享年37。まだ3歳10カ月だった茂一さんに父の記憶はまったくない。

72歳で仕事をリタイアして以降、父が亡くなった地を訪ねてみたいという気持ちが少しずつ強くなった。
昨年、遺族会の会合で過去の参加者に背中を押され、「まだ元気なうちに」と参加を申し込み、
今年2月、日本から5000㌔離れたニューギニアに眠る父に会いに行った。

死後81年目の再会に感無量
 今年2月2日、東京の皇居近くにある日本遺族会事務局(九段会館テラス)に、
茂一さんら東部ニューギニア慰霊友好親善訪問事業の参加者17人が集まった。
秋田、神奈川、愛知、奈良、和歌山、広島、鳥取など9県から、ほとんどが父を亡くした遺児。
事業の説明を受け、靖国神社に参拝して旅の安全を祈願し、夜に夕食会を兼ねて結団式を行った。

 翌日の午後、訪問団は羽田を出発し、フィリピンを経由して
4日の朝にパプアニューギニアの首都ポートモレスビーへ到着した。
その日から7日まではマダン地区、ウエワク地区の戦地を移動しながら、
機内からの遥拝、慰霊碑への参拝、慰霊碑の遺児・管理に協力してくれている
現地の団体代表らとの懇談、現地の小学校への物資贈呈等が行われた。

 茂一さんは、陸軍歩兵連隊の父や海軍敷設船乗組員の父を失った人ら3人とともに、
ウエワクにある日本軍の司令部が置かれていた海を見下ろす高台「洋展台」での追悼式に参列した。
石碑の前で、一人ひとりが父親に伝えたかった思いを切々と語りかけた。

 久五郎さんが出征し、戦死してからの家族の暮らしについて、
茂一さんは「農家だったので食べるものには困らなかったが、
月々の安定した収入がないうえに大黒柱がいないのは本当に厳しかった」と振り返る。
しかし、その苦しさの中で茂一さんは常に「負けるものか」「なにくそ」の強い精神力を持ち続け、
高校時代は朝刊配達のアルバイトで家計を支え、
卒業後、和歌山市の会社に就職するも仕事のあとは和歌山大学の夜間コースに通い、卒業した。
その後、経団連(日本経済団体連合会)下部組織の県経営者協会に転職し、
1990年(平成2)以降は理事、常務、専務の兼任で事務局長を務め、
72歳で退職。2010年春の叙勲では、労働行政の功績により、旭日双光章を受章した。

 父が眠るニューギニアのかつての戦場で、茂一さんは「この世に生を受けて、
父に対して一度も『お父さん』と呼んだことがなく、それだけが一生の悲しみであり、
無念さが残っていましたが、その悲しみもきょう、父の戦地で夢を叶えることができました」と
心境を述べ、皇居で拝謁の栄に浴した叙勲受章の喜びも報告した。

 父の死後81年を経て参加したツアーを振り返って、
「とても天気のいい穏やかな日でした。
同じウエワクで父を亡くした他の3人もみんな私と同じ年寄りでしたが、
大きな声で 『お父さん、やっと来れたよ』 『お父さん、ありがとう』と語りかけていました。
私も正直、ちょっと恥ずかしい気持ちもあったんですが、
思いきって碑に向かって『お父さ~ん』 と叫びました。
父もここから見たであろうニューギニアの美しい海を眺めながら、
あぁ、お父さんはこんなところで死んだのかとすっきりした気分になり、感無量でした」。

 父が配属されていた 水上勤務第五九中隊は1943年(昭和18)2月15日にウエワクへ到着し、
小舟艇による輸送作戦に参加しており、久五郎さんはその作戦下の戦闘で亡くなったのではないか
ということが分かった。ツアーに参加して得られたのはそれだけの情報だったが、
父が亡くなった地を訪れて、それまでずっとあったもやもやが一気に晴れ、
気持ちが楽になった。
 追悼式のあと、茂一さんは洋展台と海岸の砂を集めた。
袋に入れて持ち帰ったその砂は、遺骨のかわりとして、
塩路家と茂一さんの姉則子(のりこ)さんが嫁いだ家のお墓のそばに置かれている。      (おわり)

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◎    島しょ国メディア、強まる制約 中国の影響懸念も(2024.8.14、日経)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM141MC0U4A710C2000000/
【シドニー=今橋瑠璃華】太平洋島しょ国でメディアの報道の自由が揺らいでいる。
政府が資金不足に直面するメディアの統制を強化し、中国が影響力を拡大している。
歴史的に島しょ国と関係が深いオーストラリア政府はメディア協力の推進など支援を急ぐ。

「政治家による報道への圧力は慎むべきだ」。
5月にパプアニューギニア議会で開かれた報道に関する聴聞会で、
同国のメディア協議会会長、ネビル・チョイ氏は強調した。

パプアでは2023年、政府が「国家メディア開発政策」の草案を発表した。
非営利団体(NPO)のメディア協議会を業界団体として法制化する。
新聞などへの苦情を調査し、「職業規範に違反する」報道機関に罰金などを科す権限を与える内容だ。

草案には「前向きなニュース報道を促す」「パプアの発展意欲に反する内容を除外する」との文言も含まれた。
新聞やテレビだけでなく、メディア協議会の関係者からも懸念の声があがった。

草案は今も審議中だ。マラペ首相は日本経済新聞の取材に
「ねつ造やフェイクニュースの押し売りではなく、
メディアが事実に基づいて報道することを期待している」と説明し、
報道の自由は守られると強調した。

人口が少ない島しょ国のメディアは財政難に悩む。
収入の大部分を政府機関からの広告に頼る独立メディアも多い。
パプアでは記者は最も低賃金の職業のひとつで、
チョイ氏は「所属する組織から十分な報酬をもらえなければ、
賄賂を受け入れやすくなる」と警鐘を鳴らす。

太平洋地域では米中の勢力争いが激化している。
財政難にあえぐメディアが、
情報操作を図る外国勢力の影響工作の対象になると懸念する声もある。

パラオのウィップス大統領は、新聞社の所有者が中国から金銭の提供を受けた例に言及し
「影響力行使の動きはある」と顔を曇らせる。台湾と外交関係を保つ同国は、
中国からとみられるサイバー攻撃にさらされるなど、
断交を念頭にした圧力が強まっている。
23年には非営利団体「組織犯罪・汚職報道プロジェクト(OCCRP)」の調査で、
ソロモン諸島の新聞社ソロモン・スターが金銭の提供と引き換えに
中国に好意的な報道をすると約束していたことが明らかになった。

ソロモン・スターは印刷機材の購入などのためにおよそ2000万円を必要としていた。
ソロモンは19年に中国と国交を樹立して以降、
日本の処理水問題に対する批判で中国と歩調を合わせるなど親中路線を強める。

21年には、別の地元紙がコロナ禍支援の一環で中国政府から業務用パソコンの提供を受けた。
今年7月に発表した共同宣言で両国首脳は
「メディアにおける相互の交流と協力を拡大する」と確認した。

中国は島しょ国とのメディア協力に意欲的だ。
3月には1月に国交を回復したばかりのナウルと覚書を結び、
中国の国営放送機構、チャイナ・メディア・グループ(CMG)や
新華社通信とニュース制作や研修で協力を深めると確認した。

オーストラリア戦略政策研究所(ASPI)のブレイク・ジョンソン氏は
「中国についての報道が世界で好意的なものになるようにする外交政策の一環だろう」と分析する。

ジョンソン氏は「人工知能(AI)による偽情報が広がり、
暴動や政治不安を引き起こすかもしれない。
信頼できる独立したメディアの重要性は高まっている」と述べた。
歴史的に島しょ国と関係が深い豪州は22年度(同年7月〜23年6月)から5年間で
6800万豪ドル(68億円)を投じ、太平洋地域のメディアへの支援を強化している。
7月に公表したインド太平洋報道戦略では豪州と太平洋地域のメディア間の協力を促進し
「偽情報に対する地域の耐性を強化する」と記した。

政策を策定したウォン外相は「メディアは民主主義国家として機能するために重要だ」と述べ、
報道力の向上にむけて支援を継続するとした。
シドニー大学米国研究センターのラビナ・リー氏は
「独立したメディアやジャーナリストを通じて政治に説明責任をもたせることで、
民主主義の文化を醸成できる」と意義を強調する。

政権交代後のフィジーでは報道の自由度改善
一部の島しょ国では明るい兆しもある。
22年に約16年ぶりに政権交代したフィジーでは報道の自由度が改善している。
国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が5月に公表した世界の報道自由度ランキングで、
対象180カ国のうち44位と前年の89位から飛躍し、日本(同70位)を上回った。

フィジーは政権交代前、06年のクーデターで実権を握り、
その後首相になったバイニマラマ氏が長く統治した。
バイニマラマ氏は10年にメディア開発法を制定し、
国益に反する報道に懲役刑と罰金を科して報道の自由を制約した。
ランブカ現首相は23年に同法を撤廃した。日本経済新聞のインタビューに対し
「誰もが私を批判し、ひどいことを言っても良くなった。
私は被害者のように感じることもあるが、それこそが自由だ」と答え、
今後も報道の自由を守る姿勢を示した。

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◎    NEW CLASSROOM FOR SEME DAGODA PRIMARY SCHOOL (2024.8.15、EMTV Online)
https://emtv.com.pg/new-classroom-for-seme-dagoda-primary-school/
Member for Hiri-Koiari Keith Iduhu and Japanese Ambassador His Excellency Nobuyuki Watanabe open the new 2-in-1 classroom. Mr. Iduhu commended Japan ...

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◎    20か国の戦跡写真で 記録集19年の集大成(2024.8.15、読売オンライン)
https://www.yomiuri.co.jp/local/nagano/news/20240814-OYTNT50297/

上田市在住の鉄道写真家・唐沢昌弘さん(81)が、
アジア太平洋戦争の戦争遺跡を巡った記録集
「アジア・太平洋戦争の跡を訪ねて~私たちは日本の戦いを知っていますか~」を自費出版した。
東南アジアを中心に、約20か国の戦地に足を運んだ唐沢さんは「戦争は『しても仕方ないもの』ではなく、
『してはいけないもの』と思ってほしい」と力を込める。(山崎至河)

 唐沢さんは旧満州(現中国東北部)生まれ。第2次世界大戦中に現在の東御市に戻り、
その後は仕事の都合で全国を転々とし、40年ほど前から上田市に移住した。
上田電鉄別所線の「丸窓電車」など鉄道を中心に撮影し、
これまでに5冊の写真集を出版した。約140か国を旅し、
撮りためてきた写真とメモをつぶさにアルバムにまとめてきた。

 唐沢さんの父親は戦後、シベリアに抑留され、数年後に帰還した。
その後も戦争について語ることは少なかったこともあり、
戦跡を自分で見ようと考えるようになった。そこで1991年に旧満州を訪れたことを手始めに、
激戦地となったパラオ諸島・ペリリュー島や
パプアニューギニア・ラバウルなど19年にわたり約20か国の戦跡を巡った。

 この間感じたのは「自分たちの世代は、
戦争に行った人々がどのようにして亡くなったのかを具体的には知らない」ということだ。
ガダルカナル島を訪れた際に目にした旧日本軍の野戦病院は、虫が群がる洞穴に作られており、
その劣悪な環境に驚いた。「指揮官も、まともな現地の地図を持たない。
補給もなく、絶対にやられると分かっている環境の中でどんな気持ちだったのか……」。
戦争の実態を後世に伝えたいとの思いを強くした。
高齢となり自由に旅することができなくなったが、世界を見れば、今なお戦禍が絶えない。
「第3次世界大戦はすぐそこにある」と憂え、
自らが見聞きしてきた詳細な記録を基に約1年かけてまとめ上げ、7月に発刊にこぎ着けた。
 「戦争はすぐそこにあるのに、自分事として考える人が少なくなってきた」と嘆く唐沢さん。
「戦争に勝っても負けてもいいことはない。
昔の日本軍の人たちがどのような環境で亡くならねばならなかったのか、少しでも知ってほしい」と語る。
 A5判204ページで、税込み2000円。購入の問い合わせは唐沢さん(0268・38・4693)へ。

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◎    終戦から79年 戦没者追悼式 宇都宮(2024.8.15、NHK/栃木 NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/lnews/utsunomiya/20240815/1090018278.html
終戦から79年を迎えた15日、宇都宮市の神社では、戦争で亡くなった人たちを悼み、
平和への誓いを新たにする戦没者追悼式が行われました。

 宇都宮市の護国神社で行われた、
戦没者追悼式には県内の戦没者の遺族や関係者などおよそ260人が出席しました。

 式では父をパプアニューギニアで亡くした遺族代表の木村好文さんが
「過去の戦争から学んだ貴重な教訓を肝に銘じ、戦争の惨禍を二度と繰り返すことの無いよう、
子や孫に語り継いでいくことが私達遺族の責務だと考えています。
世界各地の争いの数々が一刻でも早く収束することを願ってやみません」と話しました。

 その後参列者は正午の時報に合わせて1分間の黙とうを行い、
平和への誓いを新たにしていました。
県の遺族会によりますと、遺族会の会員数はおよそ1000人と、
10年前の4分の1まで減少していて、今後、戦争の惨禍をいかに語り継ぐかが大きな課題となっています。
 叔父を亡くした那珂川町の70代の男性は
「戦争は絶対にしてはいけないと改めて感じた。叔父はシベリアで亡くなり、
遺骨もなく、今でも心が痛みます」と話していました。
 那須塩原市の80代の女性は「父を4か月の時に亡くし、顔も姿も分からず育ってきましたが、
追悼式の場にくると、泣けてきます。参列する人の数も減ってきましたが、
語り継ぐ活動をしていきたい」と話していました。

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◎    航空幕僚長がパプアニューギニア・パラオを訪問(2024.8.16、アセアン情報サイト)
https://portal-worlds.com/news/asean/34596
航空自衛隊は、航空幕僚長である内倉浩昭空将が、
多用途支援機U4により空幕長として初めて
パプアニューギニア独立国及びパラオ共和国を6月12日から14日にかけて訪問したことを発表した。

実施された訪問は、今年3月に行われた第2回日・太平洋島嶼国国防大臣会合(JPIDD)で発表された
「太平洋島嶼国地域における一体となった安全保障の取組のための協力コンセプト」に沿って、
太平洋島嶼国との防衛・安全保障協力の促進に寄与するものとなる。

今回の訪問では、内倉空幕長は同国の国軍司令官などを表敬し、
日本及び太平洋島嶼国を巡る安全保障環境について意見交換した。
また、パラオでは、同国大統領などを表敬し、
今後も空自機の寄航、人道支援・災害救援等、様々な分野で協力していくことを確認した。

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◎    「ゲゲゲの娘」原口尚子さんに聞いた…水木しげるが望んでいた世界と現実
(2024.8.16、Yahoo/日刊ゲンダイ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/20c26add8eeefb1af32b83fe39465a03909dc303
【注目の人 直撃インタビュー】 原口尚子(水木プロダクション取締役)
8月15日は終戦の日。戦後79年を経たこの国の平和な日常は不透明さを増している。
「ゲゲゲの鬼太郎」など妖怪物で知られる漫画家の水木しげるさん(2015年死去)は、
過酷な戦争体験に基づく戦記漫画も多く残した。作品に秘めたメッセージを改めて噛みしめたい。
水木しげるさんの長女で、水木プロダクションの取締役を務める「ゲゲゲの娘」に聞いた。

  ■飛び起きて「ここはラバウルか?」
   ──21周年を迎えた「水木しげる記念館」(鳥取県境港市)を4月にリニューアルオープンしました。  
水木の戦争体験をより大きく取り扱うことにしました。
以前は妖怪にフォーカスを当てた部分が大きかったのですが、
水木の人生は妖怪漫画だけじゃないよと。それに、
太平洋戦争を兵隊として体験した漫画家は限られると思います。
例えば、手塚治虫先生は当時は若くて、召集されていないんですよね。
   ──南太平洋の最前線のニューブリテン島・ラバウル(現パプアニューギニア領)に出征しました。
 水木は93年間生きて、60年ほどを漫画や紙芝居などの画業に費やしましたが、
最も鮮烈に覚えているのが戦争体験。実際、亡くなる前などは当時のことばかり話していました。
寝ていても、パッと目覚めて「ここはラバウルか?」と大真面目に言うことがありました。
夢にもしょっちゅう戦友が出てきたようです。私の母が隣で寝ていたら水木の「おい!」という叫び声で
目覚めたのですが、戦友に話しかけても全然返事をしてくれない夢を見ていたそうです。
   ──苦しいですね。
   ラバウルは物凄い激戦地でした。より前線に近いズンゲンにいたので、
仲間が次々と亡くなるんです。「仲の良かった人や、親切でいいやつほど早く亡くなる」と話していました。
教官に理不尽に殴られたり、酷いことを言われることもあった。
人に対する信頼感といった部分が根底から覆され、人生観そのものが大きく変わってしまったようです。

   ──具体的にはどんなことが?
 最も象徴的なのが、ズンゲンから100キロ離れた敵地バイエンでの出来事です。
所属部隊の中から10人が選ばれ、敵地に行かされました。
そこで水木が明け方に見張りをしていた時に急襲され、寝ていた仲間は全滅してしまうんです。
水木はそのまま海に逃げ、ズンゲンになんとか戻りました。
仲間は「よく戻って来た」と歓迎してくれたのに、上官から「なんで生きて帰って来たんだ! 
みんな死んだんだからおまえも死ね!」と言われたそうです。その一言がすごくショックで、
人間が信じられなくなってしまったと。しかも、
その上官には「おまえの死に場所はそのうち見つけてやるから」と言われていたとか。 
 ──爆撃で左腕を失ってしまったものの、生還されました。

 バイエンから逃げる際に大量の蚊に刺され、マラリアにかかってしまったんです。
それで寝込んでいたところ爆撃を受けて負傷し、左腕を切断するために野戦病院に入ったことで、
生きて帰ってこられたんです。
水木はよく「左腕をなくして絶望しなかったんですか?」と聞かれていたのですが、
どこで死んでいてもおかしくなかった体験をしているので「何言っているんですか! 
もう生きているだけで幸せだ!」と言っていました。水木にそう思わせるくらい、
たくさん戦友が亡くなったし、誰かが死ぬのが当たり前のところで過ごしていましたからね。
 ──戦時記憶を封印する人が少なくない中、なぜ作品化したのでしょうか。

   戦地で亡くなった人たちの思いを伝えたかったからだと思います。
みんな生きていたかったし、日本に帰りたかったのに、そこで死ななきゃならなかった。
「総員玉砕せよ!」は、彼らの無念を世に出さなくちゃいけないという思いで描いたと、
水木のエッセーにあります。実際、どういうふうに描こうだとか、
悩んだり苦しんだりしたことはまったくなかったと聞いています。
それはやっぱり、戦友たちが自分に描かせているんだというふうに、水木は思ったそうです。

   ──最近ではロシアによるウクライナ侵攻や、パレスチナ自治区ガザ地区での戦闘など、
各地で戦火が広がっています。水木さんが見たらどう思うでしょうか?

「バカだな」っていうふうにしか言わないと思います。
ごちゃごちゃ言わず、一喝すると思います。
ですが、水木は「戦争反対」を前面に出した作品はあまりないんです。
インタビューを受けても、当時あったことを淡々と話すだけなんですよ。
記者の人が「じゃあ、戦争は良くないですよね?戦争反対ですよね?」などと聞いても、
あえて答えないんです。もちろん、水木は戦争には反対なのですが。
   ──どういう意図で?
 本人に聞くと、「戦争で、
自分が経験したすごく嫌だったりつらかったりしたことを伝える。
それがどういうものかっていうのは、読んだ人が自分で考えればいい」と言うんです。
つまり、最初から結論を示すのではなく、水木が経験したことを想像してほしいということです。
「戦争反対」という言葉が先行してしまうと、作品の受け取り方もどこか平板な感じになってしまうと思います。

■若き日の手記に書いた絶望と希望
 ──戦争を主題にした漫画では、
一人一人の兵隊が命を落としていく様子にスポットを当てたシーンが多いですね。
   やっぱり水木は、「こうやって亡くなった人たちがたくさんいるんだよ」と、
伝えたかったのだと思います。「総員玉砕せよ!」では、兵隊が踊ったり、
バカバカしいことをしたり、たわいない話をして笑いあったりするシーンがあります。
戦争が起こると、私たちが普段接しているような、
ごくごく普通の青年たちが突然亡くなってしまう。
「戦争がありました。兵隊が何人いて、何人死にました」っていうような字面だけじゃなく、
実際にいた人たちが亡くなったという現実を、想像してほしいということですね。
 ──水木さんの生誕100年を記念して昨年公開された「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は、
戦後体制がテーマのひとつ。鬼太郎の父が明るい未来への希望を語るシーンが印象的でした。

 水木は出征前、どういうふうに自分の気持ちを整理したらいいのか、
手記を書いていろいろ考えていたみたいです。
宗教や哲学などの本を読んでもいて、戦争という、
いわば「死」そのものに向かう自分の気持ちをどう納得させたらいいのかを書いていました。
その中に、「画家だろうと哲学者だろうと文学者だろうと労働者だろうと、
土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。人を一塊の土くれにする時代だ。
こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。
だから一切を捨てて時代になってしまうことだ」と書いているんですよ。
つまり、時代にのみこまれ、
何も考えないで生きていくのが一番幸せ、というふうにその時は考えていたんです。
でも、ずっと手記を書いていくうちに「私の心の底には絵が救ってくれるかもしれないという心が
常にある」ということも残している。
画業に未練があり、納得のいっていない様子がわかります。
当時、水木が葛藤していたように、戦時中は自分が何をやりたいかとか、
未来のことを何も語れない時代だったのではないかと。
だから、漫画家になりたいとか、役者になりたいとか、
誰もが思い描く将来について語れる時代。
それが水木の望んでいたものなのだと私は思います。
(聞き手=橋本悠太/日刊ゲンダイ)
▽原口尚子(はらぐち・なおこ)1962年、東京都生まれ。故・水木しげるさんの長女。
小学校教員を経て、2003年に水木プロダクション入社。代表取締役を務め、20年から現職。

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◎    中2で知った父の戦死、定年後の遺骨収集「息子の務め」(2024.8.16、日経)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE07ARY0X00C24A8000000/
「父さん、元気でやっています」。埼玉県桶川市の岡部博明さん(80)は15日、
日本武道館(東京・千代田)で開かれた全国戦没者追悼式に参加し、
戦地で命を落とした父の末松さんに思いをはせた。
生まれてすぐに母を亡くし、父の戦死を知ったのは中学2年のとき。
定年退職後に「息子の務めを果たしたい」と遺骨収集に取り組んでいる。

パプアニューギニアの北部、現地の人の案内でジャングルに分け入り、夜はテントで野宿。
「父はこれよりずっと過酷な生活をしていたのか」。少しでも父に近い状況に身を置こうと、
体を洗わず、ひげもそらずに3日間過ごしたこともある。

岡部さんは2015年、初めて慰霊のために同国に渡った。
現地に残された戦没者の遺骨を収集する事業にも参加し、これまでに7回訪れた。
23年は父が亡くなったとされる海沿いの都市ウエワクの慰霊碑で祈りをささげた。

父の戦死を知ったのは岡部さんが中学2年のときだった。
放課後にほかの生徒数人とともに教員に呼ばれ、
保護者宛ての「大事な通知」を渡された。
長野県の護国神社に父がまつられているという内容だった。

岡部さんは1歳で終戦を迎え、同県で農業を営む伯父夫婦に育てられた。
学校からの手紙を受け取った伯父は1945年に「戦死公報」が届いたこと、
岡部さんの母が出産から18日後に亡くなったことを告げた。
動揺はなかった。育ててくれた伯父夫婦、その子どもたち9人の家族がそばにいたからだ。

苦しんだこともある。高校卒業後に志した職種は、
担任から「おそらく親がいない人は書類で落ちる」と告げられた。
同じ境遇の知り合いも採用されておらず、諦めた。
「父親だけでも生きていれば違ったかもしれない」。戦争を恨んだ。
東京の会社に就職し、定年まで勤めた。
「いつか戦地で父の供養をしよう」という長年の思いから、
日本遺族会の慰霊友好親善事業に参加。申し込みの過程で、
父が2度の出征の間に東京で結婚し、岡部さんが生まれたことも分かった。

父の写真を携えてパプアニューギニアで供養をした後、父への思いがあふれた。
「もし父が生きていたら、戦友の遺骨を拾いに行ったに違いない」。
遺骨収集に参加するようになり、父の境遇を知るために戦争の資料を読み込んだ。

24年には国が過去に収集した遺骨の中に父のものがないか確かめるため、
DNA検体の提供を申請した。
赤道付近の同国での調査は条件が厳しく、健康面の不安から諦める遺族は多い。
地元の遺族会の中で「若手」にあたる岡部さんも80歳を迎えたが、「息子の務めを果たしたい。
元気なうちはいつまでも参加する」と力を込める。年内に予定される遺骨収集の参加を申し込み、
選ばれるかどうかの結果を待っている。
ウクライナの兵士が戦地に行くため家族と別れる映像を見ると、胸がいっぱいになる。
「自分は家族に恵まれたが、つらい人生を歩んだ遺族がたくさんいた」。
亡き父を思い、戦争のない世の中を祈る。(中川紗帆)

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◎    <5>「生きる」 展示通し問う…水木しげる記念館(鳥取県境港市)(2024.8.18、読売オンライン)
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/feature/CO076820/20240817-OYTAT50026/
 壁にジャングルの植物や鳥が鮮やかに描かれた展示室に、
「私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ」という武骨な歌声が流れている。

 妖怪漫画「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる鳥取県境港市出身の漫画家・水木しげるさんの生涯に迫る
「水木しげる記念館」の一角だ。
今春の再オープンに伴い、
水木さんの人生に大きな影響を与えた戦争体験を作品や手記でたどる展示スペースが新設された。

1922年生まれの水木さんは、太平洋戦争が激化する43年、召集令状を受け、陸軍に入隊する。
ラッパの担当になるが、なかなか上達せず辞退を申し出ると、
上官から「お前、南と北とどっちがいい?」と迫られ、「南」と即答する。
南方戦線のパプアニューギニア・ニューブリテン島に送られた。
44年、空襲の爆撃により、左腕を失った。

 館内では、水木さんが出征前に書いた手記、戦地から家族に宛てた手紙、
終戦直後に描いたデッサンの複製などを見ることができる。
戦地に持っていったという本「ゲーテとの対話」には、
死への不安を 払拭(ふっしょく) するかのように、ぎっしりと線が引いてある。
水木さんの実話などを基に戦争の狂気を描いた漫画「総員玉砕せよ!」のセリフや絵も紹介している。

 晩年の約10年間つきあいがあった庄司行男館長(68)は「戦争という理不尽な経験が、
聞こえのいい勧善懲悪や夢物語ではなく、現実に真正面から向き合う水木作品に表れているのでは」
と推察する。
 声高に戦争反対を主張することは少なかったという水木さん。
「墓場鬼太郎」には、喫茶店で突然男性に殴りかかる客に対して、
隣にいたねずみ男が「けんかはよせ 腹がへるぞ」とぼそっと言う場面がある。
庄司さんは「食べることを大事にした水木さんだからこそのセリフ。
大上段に反戦を振りかざすのではなく、漫画の中に平和への願いを込めたのだろう」と考える。

 常設展の最後には、水木さんが残した言葉が並ぶ。
「戦争を賛美するのは戦地に行かない人間ですよ」
「平和な空気を吸って人間の食うものを食っていればそれが天国」「目に見えない世界には国境はないです」
展示を通して、生きるとは何か、を私たちに問いかける。(鳥取支局 林美佑、おわり)

  水木しげる記念館  水木しげるさん(2015年に93歳で死去)の功績を
作品や資料で紹介する施設として2003年に開館。
原画の展示設備を備え、今年4月に再オープンした。
JR境線境港駅から妖怪ブロンズ像178体が配置された
「水木しげるロード」を歩いて約10分。年中無休。

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